延々と続く坂道を、一人の青年が一歩一歩確かめるように、ゆっくりと踏みしめて登っていた。
茶色い坂道を吹き渡る風が、彼の汗ばんだうなじをさらりと撫でてゆく。
葡萄色の髪と、ふっさりとした大きな耳も、同時に揺れ動いた。
「ふぅ…」
見上げると、寺院が逆光の中で影絵のようにくっきりと浮かび上がっていた。
それをしばし見つめた後、青年は再び登り出した。
観光名所にもなっているそのテラスには、今は誰もいなかった。
青年は、目の前に広がる絶景につられて、思わずテラスの端へと歩み寄った。
険しくそびえ立つ幾つかの断崖の向こうには、瑞々しい彩りの森や平野の草原が遥か地平線まで広がっている。
遮るもののない風が、青年のまとっていたマントを無遠慮にバタバタとはためかせた。
「…師匠。どこに行っちまったんだ」
絶景を眺めながらぽつりと独り言をもらした時、ふと気配を感じて青年は後ろをふり返った。
誰もいなかったはずなのに、いつの間にか一人の少女がそこに佇んでいた。
緑を基調とした、意匠を凝らしたローブをまとっている姿は、観光客というよりもこの街の修行者のようにもの静かであった。
青年を見つめるその口元には、微笑をたたえている。
「…あんたは?」
初めて見る顔であったが、なぜか以前から知っているような気がして、青年は少女に問いかけた。
少女はにっこりして、
「私の名前はマチルダです」
と応えた。
青年の目が、驚愕で見開かれる。
「あんたが、七人目の…!」
そうもらした後で己の非礼に気づき、青年は慌てて少女に向かって頭を下げた。
「俺…私の名前はバドといいます。師匠から、あなたのことは聞いていました」
青年の言葉に、少女もうなずきながら、
「あの方のことは、私もよく覚えています」
と懐かしそうに目を細めた。
「まさか、あなたに会えるとは…」
と青年は、感動で胸がいっぱいになり、我知らず両手を広げていた。
かつて、青年がまだ少年だった頃、彼は師匠にねだって旅の供をし、希望通り、六人の賢人に会って話すことができた。
今ふり返ると、マナの英雄となる人を師匠にできたこと、そして賢人達と言葉を交わすことができたこと、すべて希有な出来事であったのだと青年はしみじみ思う。
俺は運がよかった、と彼は今更ながら心の中でつぶやいた。
(いや、今も、だ。こうして、話にだけ聞いていた七人目と出会えたのだから)
けれど、彼がいちばんに望んでいることは、未だ起きていない。
かつて、師匠と共に賢人達にまみえた時、彼の尋ねたいことは一つだった。
そして現在、魔法だけなら師匠とそこそこ渡り合える自信もついてきている。
今の姿が、かつて自分の望んだ「大魔法使い」であるかどうかは、自分ではよくわからない。上を見ればきりがないし、彼は現状に満足せず、向上心を現在も持ち続けている。
けれど、肝心の目標となる人物は大分前から行方知れずになっていた。
女神の闇を葬ることで世界を形成しているマナを再構築するという大事業を成し遂げた後も、彼ら双子の師匠はマイペースに本を読み、旅をし、“我が家”に帰ってきては果実をもいだり武器を鍛え直したりしていた。
けれどある時、彼らの師匠はいつものようにぶらりと旅に出た後、ぷっつりと音信が途絶えた。
時に悪い予想が胸をよぎることもあったが、少年は師匠が倒れるということはありえないと信じていた。
姉のコロナと一緒に、何年も何十年も“我が家”でずっとその帰還を待ち続けていたが、ついにしびれを切らしたバドは師匠を探す旅に出ることにしたのだった。
彼ら双子は成長が他の種族に比べてゆるやかな森人(エルフ)であったが、いつしかバドは少年から青年になっていた。
今、思いがけず七人目の賢人を目の前にして、彼は彼女に師匠の居場所を尋ねたい誘惑にかられた。
かつて賢人達に尋ねて回った、大魔法使いになれるかという問いは、今では脳裏に浮かぶこともなかった。
努力すれば、それに比例するように実力が身に付いてくることを実感してからは、大魔法使いになれるかどうか疑問に思うこともなくなり、ひたすら魔法の修行に打ち込んでいた。
現在のバドが知りたいのはただ一つ、何年も待ち焦がれた師匠の居場所だけであった。
そんな時のこの賢人の出現は、いうなれば試験勉強を始めようとした矢先に、試験の解答用紙を目の前にぶら下げられたようなものであった。
魔法学園にいた頃の幼い自分なら、目の前にある解答用紙に手を伸ばしたかもわからない。
けれど、今この賢人に、この旅の答えを求めてはいけないような気がなぜかして、青年はのどまで出かかっていた言葉を呑み込んだ。
少女は、変わらず穏やかなまなざしで青年を見つめている。
「…一つだけ尋ねたいことがあります。あなたは、師匠が今どこで何をしているかご存じなのですか?」
ずばり答えてもらうことを怖れて、青年は相手が答えを持っているかどうかを尋ねた。
それに対して少女は、
「ええ。知っています」
とうなずいた。
その瞬間、青年の心臓が硬直する。
胸の痛みにつれて、のどまで干上がるような気がして、青年は無理矢理唾を飲み込んだ。
「…そうですか。私は、師匠を探す旅の途中なのです」
それだけを、ようやく青年は言った。
少女は、微笑みながら、
「裏切られることを恐れる限り、真に信じることはできません」
と応えた。
その言葉は、青年の胸に突き刺さった。
しばしの沈黙の後、青年は、
「…俺はいつでも、師匠が生きていると信じている。あの人が倒れることはあり得ないから」
と、少女への返事というよりは独り言のようにつぶやいた。
いったん言葉にすると、それは確信へと変わっていった。
そうだった。あの力強い背中と笑顔を再び見い出すために、自分は旅立ったのだ。
出発の時に姉に言った、威勢のいい啖呵を思い出して、彼の口元に笑みが浮かんだ。
『どうせまた、どこかでとんでもないことに巻き込まれてるんだろうよ。
全く、お人好しだからな、師匠は。
俺が見つけて、ちゃっちゃっと解決してみせて師匠を連れて帰るから、上手い飯を用意して待っててくれ』
もはや、青年の顔に苦渋の色は微塵もなかった。
晴れやかな笑顔を少女に向けると、青年は、
「ありがとう」
と一言、礼を言った。
「あなたの前途に女神のご加護があらんことを」
と少女は祈りの言葉を青年に捧げた。
その時、坂の下の方から、おーいと呼ぶ声が響いてきた。
青年は、我にかえったように声のする方をふり向いた。
「いけね、相棒に言うのを忘れてた…」
そう言って首をすくめると、青年は少女の方へ向き直り、一瞬名残惜しげに見つめた後、深々と頭を下げた。
そして、坂道の方へと駆け出した。
その旅は奇しくも、かつてガイアが少年であったバドに予言したものであり、その後、バドの名は相棒の珠魅と共にファ・ディール中に轟くこととなる。
そして、求めていた答えも、彼はこの旅で見い出すこととなる。
また、七人目の賢人の存在がはっきりと確認され、“希望の炎を灯す者”という彼女の二つ名も広く知れ渡るのであるが、それはもうしばらく先の話である。
end.
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