かげろうが、ゆわ〜んと揺れ、セミが空気を震わすように鳴いている、うだるような真夏日。
 そんな暑い、暑い夏の夜には、ときたま不思議なことが起こったりします。
 いじわるな妖精のいたずらなのか、やさしい女神さまの贈り物なのか、それは誰にもわかりません。
 これは、そんな不思議なある夜のお話。

「ねぇ、オイラ船乗りになるんだ!」
 瞳を輝かせて、そう宣言する息子に、母親はハイハイと相づちを打った後、
「わかったから、水を汲んで来なさい、カペラ!」
とその背中をポンと叩きました。
「いやっほーい! オイラはぁ〜船乗りぃ〜波に〜揺られてぇ〜」
 即興の歌を叫びながら、少年カペラは桶を取りに、部屋を飛び出していきました。
 その脳天気な歌声を聞きながら、母親はため息をひとつ、つきました。
「やれやれ…いつになったら、現実を見つめるようになるんだろうね?」
 カペラが、何かになると宣言するのはこれで何度目になるのやら、両手で数えても足りないぐらいでした。

 学校も図書館もない、この小さな宿場町では、通りすがりの旅人達の話がカペラや他の子ども達にとって大きな楽しみなのでした。
 そして、旅人の話を聞いた後、カペラは必ず、騎士になるんだと力んだり、とれじゃーはんたーになると叫んだりするのが常でした。
 大人達ももちろん、旅人の話を聞くのを楽しみにしていましたが、話の中に「嘘」や「大げさ」というスパイスがちょっぴり混じっていることを知っているため、子ども達のようにひどくドキドキしたりワクワクするということはありませんでした。
 そして、子ども達もまた、大きくなるにつれて、そうしたスパイスの味つけがわかるようになってくるのでした。

 ところが、カペラは十を越えても、大人用の椅子に座れるようになっても、ちっとも変わりませんでした。
 相変わらず、吟遊詩人の歌にその大きな耳をピンと張って聞き入り、旅人の話の身ぶり手ぶりにいちいち驚いたり歓声をあげたりするのでした。
 そして、もはや一人だけになってしまった夢物語の語り相手に、自分もいつかああなるのだと熱く語るのでした。
 カペラの夢物語の唯一の聞き手であるディドルは、眠たそうな目をした、おっとりとした少年で、ぱっちりとした目のせっかちなカペラとは何もかも正反対でしたが、なぜか二人はよく一緒に行動していました。
 似ていないことも、仲よしになる秘訣なのかもしれません。
 時々、二人は夜更けに秘密の場所で落ち合って、星空の下、カペラの熱い夢語りとそれを聞くディドルの姿が影絵のように展開されるのでした。
 そして、おしゃべりの種が尽きるとカペラは、手すさびにジャグリングを始め、ディドルは静かにそれを見つめているのでした。
 いつか来たサーカス団のおじさんに習ったジャグリングは、最初は二つだけしかできなかったのですが、今は五つの玉を自在に操れるようになっていました。
 軽快に玉を繰り出しながら、
「お前もやってみろよ!」
とカペラが声をかけ、
「う う ん、 ボ ク は い い よ」
とディドルがゆるゆると首を横にふるのが、お決まりのやりとりでした。
 空中に舞い上がる玉が、月光をはね返して、鈍く光ります。
 ちかっ、ちかっ、と、目の錯覚のように、ほのかに光りながらどんどん繰り出される玉。
 それはまるで、この小さな町で同じことを飽きもせずにずっと繰り返している、カペラそのものの姿のようでもありました。


 ある夏の日の夜中、いつもの秘密の場所に、いつものように二人の姿がありました。
 けれど、いつもとは様子がなにやら違いました。
 にぎやかに語っているはずのカペラは、ひざを抱えて頭をうずめたまま、ピクリとも動きません。
 その隣でディドルは、ぱたり、ぱたりと所在無さそうに尾ひれを動かしています。
「・・・ね ぇ、 カ ペ ラ。 星 が、 き れ い だ よ」
 珍しく、ディドルの方から話しかけてきました。
 実際、今宵の夜空はひときわ美しいものでした。
 けだるい日中の暑さもいくらか和らぎ、今宵は月に遮られることのない星たちが、生き生きと瞬いています。
 深い深い紺碧の海に金銀の光り輝く粒が惜しげもなく散りまかれている、その様子は、おとぎ話に出てくる世界のようでした。
 そんな夜空を仰いでいるディドルの胸にも、ぽつりぽつりと美しい灯りが点っていくようでした。
 けれど、カペラはずっと顔をひざにうずめたままです。
 ディドルは、それ以上は何も言わず、ただカペラの隣に座っていました。
「…父ちゃんの、バカやろう……」
 蚊の鳴くような声が、顔をうずめたままのカペラから漏れてきました。
 ディドルの尾ひれが、それに合わせるかのように、ぱたりとひらめきます。

 この日の昼、カペラは父親にこっぴどく叱られたのでした。
「カペラ! お前はいったいいくつになるんだ!? いい加減にしろっ」
「オイラ、本気だよ! モンスターをばったばったなぎ倒す、有名な戦士になるんだ!」
 そう言い切った瞬間、激しい音と共にカペラが後ろにふっとびました。
 振り切った父親の掌は、真っ赤になっています。
「…カペラ! お前は真面目に仕事を覚える気はあるのか……?」
 激しい平手打ちとは対照的に、父親の声は小さく、低くなっていきます。
 カペラは、クラクラする頭をなんとかまっすぐに起こしながら、それでも言い続けました。
「父ちゃん、オイラ、本当に本気なんだよ! 嘘じゃないよ!」
「……ああ、本気なんだろうさ。何度目の『本気』かい? お前の言うことはコロコロ変わる。その程度の『本気』なんざ…くそくらえだっ」
 最後には吼えるように言い放った父親の言葉に、カペラは言い返せませんでした。

 月の無い、真っ暗な夜空の下で顔を膝にうずめていても、カペラの脳裏には昼間の出来事が鮮やかに甦ってきます。
(違う…たしかになりたいものはよく変わるけれど、オイラは一度だって嘘はついていない!)
 けれど、それは言葉になりませんでした。父親に届かないとわかっていたからです。
 どう説明すればいいのか、カペラにはわかりませんでした。
 旅人の土産話を聞くたびにわき上がる、あの気持ち。
 ふつふつとお腹の底からわき立つ、熱い熱い想い。
 なってみたいのです。
 見たこともない大海原で、潮風をめいいっぱい受けた帆をはためかせ、自由自在に世界を旅する船乗り。大きく転回する船、汗を飛び散らしながら雄大に舵を切る逞しい腕。
 無気味な洞窟の中で、小さな灯りだけを頼りに、細かい道具を慎重に、巧みに操ってトラップを次々に解いていくトレジャーハンター。最後のトラップを解いた時のカチリというかすかな手ごたえと、背筋に走る、寒気にも似た大きな達成感。
 襲い来る獰猛なモンスターの攻撃を、その体重をずっしりと感じながら盾で受け流し、そして返す利き手の武器で見事急所に切り込む戦士。死の恐怖で冷たい汗を背中に感じながらもひるまず立ち向かう者に贈られる、勇者の称号。
 男なら、誰もが憧れる、大きな仕事、手柄。勇敢な者が手にする、功(いさおし)。
 「なってみたい」という、単純で太く、まっすぐなこの想いは、伝説の勇者が空に向かって投げた槍のように、どこまでもどこまでも力強く突き抜けていきそうなほどです。
 けれど、この想いが本物であるということをカペラは父親にうまく伝えられませんでした。
 自分の想いを嘘だと切り捨てられたこの気持ちは、何者にもなれないことよりも、ずっと辛いことでした。
 じわりと、涙がカペラの目ににじんできます。
「……オイラ、なりたい…本当に、なりたかったのに…!」
 相変わらず蚊の鳴くような、けれど最後は語気鋭く言い放ったカペラに、ディドルも思わずカペラの方をふり返りました。
「カ ペ ラ・・・」
 闇夜の中、かすかな星明かりだけが二人を照らしていました。

「よい夜だ。月のない夜もまた、美しい」
 ふいに、朗々とした声が夜陰に響き渡りました。
 ぴくりと、カペラの耳が動きました。
 ディドルは、声のする方をゆっくりと仰ぎます。
 ざわりと、なにかが木の梢から地面に降り立つ気配が伝わってきました。
 いつもならやかましく騒ぎ立てるはずのカペラは、うっそりと面を上げただけでした。
 ディドルは、闇夜の中を一生懸命見すかそうと、ぱちり、ぱちりと瞬きをしています。
「こんばんは。カペラ、ディドル」
 正体のしれない声に名を呼ばれて、ようやくカペラは声を出しました。
「…あんた、誰だい?」
 二人とも聞き覚えのない、けれど穏やかで深い声の主は、初めて名のりを挙げました。
「私の名は、ポキール」
 その言葉に、今まで虚ろだったカペラの目が、大きく見開かれました。
「ポ、ポキール? もしかして、あの伝説の賢人の…?」
「そう呼ぶ者もいるね」
 さらりと言ってのけた賢人に、今までの落ち込みはどこへやら、カペラは両手を握りしめ、がばりと身を起こしました。
「すっ、すげーっ!! オイラ、今まで会ったことないよ!」
 ディドルは、この急展開に、少し瞬きの速度が早くなりました。
 唐突に現れ、視界の効かない闇夜の中で名のっても、それを塵ほども疑わないこの闊達な少年に、ポキールはフフッと笑みをもらしました。
「元気になったようだね」
 賢人の言葉に、カペラは急に昼間のことを思い出し、またムスッとした顔になりました。
「…オイラ、嘘つきじゃないよ!」
 そう言って、どっかりと地面に座り込んだカペラを、ポキールはしばらく見守っていましたが、つと夜空を仰いで囁き始めました。
「歓びが深ければ、悲しみも濃くなる。
 思いが強ければ、それは遥か先まで照らす道標となり、そして人を傷つける刃ともなる。
 カペラ…君たち親子のようにね」
 その言葉にカペラは眉をしかめました。
 カペラには難しい言葉はよくわかりませんが、親子の衝突について賢人がなにがしかを言ってくれたということは理解できました。
「…でも、オイラは父ちゃんが嫌いだ。オイラのことを、バカにした」
 きゅっと、カペラの拳が固くなります。
「そうじゃない。君の父親もまた、まっすぐな人だ。君を理解できないだけでね」
 カペラのしかめ面が、いっそう渋くなりました。
 その、理解してくれないというのがいちばんの問題なのです。
 どうしてわかってくれないのか。
 どんなに訴えても、言葉を尽くしても、届かない思い。
「…オイラが吟遊詩人みたいにうまくしゃべれたら、父ちゃんもわかってくれるのかな」
 思わず出たぼやきに、賢人はバサリとマントをひるがえしながら言いました。
「詩人はどんな人にでもなれる」
 え、とカペラはポキールを見上げました。
「流麗な言葉を紡ぎ、人を魅惑の空想世界へ呼び込む者だけが詩人なのではない。
 詩人とは、感動を体感する人そのものなのだよ」
 賢人の言葉は、相変わらず難しくてよくわかりませんが、カペラの心臓は大きく脈打ち始めました。
「朝焼けに見愡れる者、死と隣り合わせの戦をする者…世界の美しさを感得し、世界の峻烈さを肌で感じる者たちは皆、その瞬間、生命の歌を奏でている。
 その生きざまそのものが、詩なのだよ。
 たとえ誰にも聴こえない歌であっても、彼らは旋律を奏でている。彼ら自身の心に、しかと鳴り響く音色だ」
 たまらず、カペラは立ち上がりました。
「オ、オイラ…オイラ…」
 闇夜の中、星に負けないぐらいにカペラの瞳が輝いています。
 昼間、父親に伝えたかったことを、この賢人はずばり言い当ててくれた。その感動で胸がいっぱいになって、言葉がうまく出てきません。
 賢人の言葉は時々わからない部分もありますが、自分が訴えたかったこととぴったり重なるようにカペラは感じたのでした。
 父親に否定された思いを掬いとってくれた人がいる…その嬉しさに、カペラの目尻にうっすらと涙が浮かんできました。
「オイラ、オイラも…詩人になれるかな…」
 どもりながらカペラが言うと、
「もちろん」
と穏やかな、けれどきっぱりとした返事が返ってきました。
「ひゃーっほーっ!!」
 カペラは、文字通り躍り上がりました。
「オイラ、旅に出るよ! いろんなことを体験するんだ!」
 そう言って、やおらディドルの両手をそれぞれつかみ、ぐるぐると引き回し始めました。
 展開の早さにただただ目を見開いていただけのディドルは、突然くるくると引き回されて、それこそわけがわからなくなってきましたが、カペラが元気を取り戻したことだけはわかりました。
(よ か っ た・・・)
 頭の中までくるくる回っているようでうまくしゃべれないので、ディドルはただにっこりと笑いました。
 カペラは、賢人に認めてもらえた嬉しさで、父親に否定された悔しさも悲しみも今はふっとんでしまったようです。
「君たちがよい音色を奏でるのを楽しみにしているよ」
 そう言って、ポキールは暗闇の中でひょいと帽子を持ち上げてみせました。
 『君たち』という言葉に、ディドルの心臓がとくん、と鳴りました。
(ボ ク も・・・?)
 正直、ディドルには賢人の偉さも、その言葉の意味もよくわからないし、興味がありませんでした。
 けれど、あんなに落ち込んでいたカペラを元気づけてくれた人の、自分の存在も認めてくれた言葉に、とくとくと胸が早鐘を打ち始めました。
「ディドル! 一緒に世界を回ろうぜ! いろんな場所を見て、いろんな冒険をするんだ!」
 ディドルは返事をしようとしましたが、もう目が回って何か言うどころではありませんでした。
(あ あ・・・星 が 河 に な っ て る・・・)
 闇夜の底に激しく流れる星の渦をかろうじて視界に捕らえながら、ディドルは幸福なめまいで気絶しそうになっていました。
「オイラたちは、詩人に、なるんだ!」
 暗闇の中、二つの影がひときわ高く跳ね上がりました。

 FIN


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