その瞬間、彼は聞いたような気がした。
 世界がはじける音を。

 いや、気のせいではなかった。
 息を飲んで気配に集中している彼の内側にも、世界が大きく転回するのが伝わってきた。
 ファ・ディールに存在するありとあらゆるものが、根本のマナの部分から塵となり離散して、またたく間に再構築されてゆく。
 冬の寒さに固く縮こまっていた鳥が、春の柔らかな日差しの中へと翼を広げて飛び立つように、世界中にのびやかな空気が流れ込んできた。
 よどみ、冷えていた世界が、雪どけの水のようにどんどんと動き出していくのを肌で感じて、ヌヌザックは思わず感嘆のつぶやきをもらした。
「…奇跡じゃ」
 かつて偉大なる召喚士として名を馳せた彼には、常人よりも世界の変貌の様子が手に取るように理解できた。
 己の身体の内にも満ちてくる暖かな気配に惹かれながらも、その流れに身をゆだねきることに彼がまだ躊躇していたその時、ふいに背後から声が響いてきた。
「その通り。けれど、これはキミが望んだから起きたのだよ」
 ヌヌザックがその平たい身体をくるんとひねると、そこにはマントをひらりとさばきながら帽子をひょいと持ち上げる賢人の姿があった。
「私が望んだ、ですと?」
「そう。キミは、固く閉ざしていたキミの夢の檻を、あの者に解放した。
 だから、あの者はキミの思いを受け止めたのだよ。
 光明を待ち望んでいたキミの狂おしい思いをね。
 そして、彼は聖域に赴いて、ひとつの時代に今、終止符を打った」
 ポキールの言葉に、ヌヌザックは顔をしかめた。
「…私が光明を望んでいたと、あなたは言われるのですか」
 相変わらず懐疑的なその言葉にも、賢人はふふ、と穏やかに微笑みを返した。
「じゃあ、今キミが心惹かれているものは一体何だい?」
 その言葉にヌヌザックは、うっとつまった。
「…この圧倒的なエネルギーが、マナの木の威力なのですか」
「違う」
とポキールは淡々と、しかし即座に返した。
「そのぬくもりは元々、キミの中にあったものだ。
 最前も言ったように、マナの木に触れることで、人は己の本質に気づく。
 キミは、長い間忘れていたものを思い出しただけなんだよ」
 賢人の説明に、ヌヌザックはしばし考え込んだ。
「元々、私の中にあったもの…」
「そう。キミは、自分の夢の中へ彼を受け入れた時点で既に、愛を思い出しかけていたのさ。
 愛するということは、相手を信頼するということだ。
 裏切りや失敗を恐れる気持ちを踏み越えて相手に自分の心をゆだねる…愛を知らなければできないことだよ」
「その裏切りや失敗の苦さを、私はさんざんなめ尽くしてきた。だからこそ、そんなことはおいそれとできないのですよ」
 なおも二の足を踏むヌヌザックの顔を、ポキールがのぞきこんだ。
「ならばヌヌザック、彼がキミの夢に入り込んだ時、キミはどんな感じだったのかい?」
 その言葉に、召喚士の視線が浮いた。
「…風穴が空いて、風が吹き抜けていくような心地がしました」
「なら、答えはもう出ているね」
 くちばしの端に笑みを浮かべながら、ポキールはすっと一歩下がって立ち直った。
 ヌヌザックは未だ納得しきってはいないものの、この暖かな気配への不安や躊躇が薄らいできたのを自覚して、身体の力をわずかに抜いた。

 その時、ふいに声が響いてきた。
『ヌヌザック。もうよいではないか』
 大気をビリビリと震わせるようなその声音に、ヌヌザックは首をかしげた。
「一体、何者じゃ?」
『わからぬか。まあ無理もない。この身体と声は別物になってしまっておるからの』
 姿無きその声に、未だヌヌザックが不審の色を見せていると、
『私はロシオッティだよ。ヌヌザックよ、久しいな』
と声が正体を明かした。
「…!」
 ヌヌザックは驚愕で声も出ない。

 遠い昔、魔導士と妖精の諍いが激化していた頃、彼らは炎帝ロンウェイに仕えていた同士だった。
 魔導士の傀儡と化していたロンウェイの僕(しもべ)として、二人はそれぞれ辛酸をなめてきた。
 弓の名手だったロシオッティは、より多くの金を積んだ炎帝の側についたが、自らの意志で判断することを放棄した代償として、賢人の一人セルヴァを射殺してその手を罪に染め、故郷も戦禍で失った。
 優れた召喚士だったヌヌザックは、炎帝の命じるままにワームや魔物を次々に召喚して破壊に加担した挙げ句、ついにはその身を魔法陣の向こうの異世界に閉じ込められる羽目になった。
 共に、賢人達をも敵に回して戦に臨んでいながら、一方は心を改めて今や賢人の一人に数えられ、一方は肉体を失ったまま、虚ろな心を抱えて生き長らえている。
 その事実を思い出して、ヌヌザックが眉を曇らせていると、
『ヌヌザック。光に目を向けようとしない人生に、果たして前途があろうか』
と彼の円陣の身体を震わせるような力強い声が響いてきた。
「…あなただからこそ、わかるだろう。
 今の私のこの身体は、かつて世界の理(ことわり)や賢人達に背いたなれの果て。
 道を踏み外した者が、どうして光をまっすぐ仰げるじゃろう?
 …それに、私は、あなたの故郷を焼いてしまった…」
 再びヌヌザックがうなだれると、声はなお彼に語りかけてきた。
『罪に染まることが悪ならば、この世のほとんどの者は悪に分類されるであろうよ。
 罪を罪と知らぬままでいることこそが、いちばん悲しくみじめなことなのだよ。
 ヌヌザック。おぬしも知っているだろうが、私はセルヴァを殺めてなお、彼に仕える者達に赦された。
 赦されて初めて、己の罪が何であったかを知った。
 私の罪は、セルヴァを射殺したことそのものではない。
 そもそも最初に、己の意志で道を選び取らなかったことなのだよ。
 私は弓が得意だったが、それゆえ、戦が起こった時に、どちら側に付くのか周囲の注目を集めた。
 噂は一人歩きし、私の選択で戦況が左右されるとまで言われた。
 この重責に耐えかねて、私は、より多くの金を積んだ側を選ぶという安易な方法に逃げ込んだ。
 その結果が、セルヴァの射殺だった。
 己の意志で選び取った道だったならば、その罪も後悔も背負いきることができただろう。
 けれど、これは後悔してもしきれず、償っても償いきれない罪だった。
 それでも、私は赦された。
 だからこそわかるのだよ。罪を罪と知り、省みることができる限り、人は光を仰ぐことができる』
 ロシオッティの言葉は、その響きの力強さそのままに、ヌヌザックの心に響いてきた。
『それに、おぬしの召喚したワームが私の故郷を焼いてしまったことで、私の真に戦うべき相手がわかったのだよ。
 憎むべきは、ワームを召喚したおぬしではなく、その背後にいた炎帝であり、更に言えばその炎帝を操っていた魔導士達の企みだった。
 欲望にとりつかれた破壊は、新たな憎しみを生む。
 おぬしも、そのことを身に沁みてわかっておるから、生徒達に魔法を教えないのだろう?
 けれど、おぬしの教え子が教わった技を邪な破壊に使うと決まったわけではない。
 技と共に、邪な用途を戒めるおぬしの精神も伝えればよい。
 罪が罪を生むとは限らないのだよ』
 しばしの沈黙の後、ヌヌザックは大きく吐息をついた。
「…ありがとう、ロシオッティ殿」
 召喚士がぼそりともらした礼の言葉に、かつての弓の名手は呵々と笑い声を響かせた。
 その響きに耳を傾けながら、ヌヌザックはいつの間にか自分が、周囲を取り巻く暖かな空気に自分も溶け込んでいることに気づいた。
 しかし、彼はそのことにもはや不安も違和感も感じなかった。

 ヌヌザックがうっとりと目を閉じて佇んでいると、それまで傍らで静かに立っていたポキールがふわりとマントをひるがえしてヌヌザックに向き直り、再び語りかけた。
「ヌヌザック。世界は生まれ変わった。キミも、生まれ変わることができるのだよ。
 キミが望めば、キミの肉体も再びこの世界に甦る」
 その語りかけに目を覚まして、ヌヌザックはポキールを静かに見つめた。
「ポキール殿。私はもう、恐れたりひるむことはしませぬ。
 しかし、人間の愚かさの証として、私はあえてこの円陣の姿のままでいようと思います。
 人間とは忘れっぽいもの。二度と同じ轍を踏まぬためにも、このような生き証人も必要かと存じます故」
 その穏やかな声音に、賢人も柔らかな笑みを浮かべる。
「キミがそう望むのなら、それでかまわない。ボクは、いつでもキミの選択を祝福する」
 その言葉に、円陣が軽やかに波打った。
 ヌヌザックのほっほっという笑い声が、辺りに響いてゆく。

 世界は今日も、光とマナで満ちている。


 end.


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