個人的LOM世界観

私的設定てんこ盛りです、ご注意を。
考えが変わったら、またちょこちょこ加筆修正するかもです。
(でも、放置プレイの可能性の方が大ですが)
マナの女神と英雄 02/12/27(03/02/01:微修正)
自由意志 03/02/01
英雄と双子 02/12/27

[ 雑記 ]

マナの女神と英雄

LOMにおけるマナの女神は、一見全知全能の神のように見えますが、私は絶対神ではないと思っています。
世界の創造者である彼女は、個々の思想──イメージ──が現実となるこの世界では神というよりもむしろ一個の意識ではないでしょうか。
遠い遠い原始の刻、何もない空間の中に、最初にぽつんと存在していた意識。それが、彼女から生み出された者達によって、後から「女神」と名づけられたのです。
彼女は純粋に意識だけの存在であり、肉体を持たないため、彼女の姿は、その存在を認める(見る)者によって変わります。神々しい女神を思い描く者にはそのような存在として、素朴な大地の神として崇める者には、暖かな懐を持つ存在として、彼女の姿は映し出されます。

想像力が豊かで、自分のイメージを鮮やかに思い描くことのできた女神はさまざまなものを生み出してきました。
彼女は、己の生み出したもの全てを慈しみます。母が我が子を慈しむように。
そしてまた、それは単なる創る側と創られる側という関係でもありません。
生み出された者は、生まれた瞬間から自由です。自由に笑い、泣き、そして戦います…生み出した者との意思とは無関係に。
そして、彼らがお互いに関わり合い、干渉し合うことでまた新たなイメージが生じ、そこから更に世界が広がり、発展してゆくのです。
始祖である女神でも、いったん生じた創造の連鎖に手を加えることはできません。
彼女は、支配者としてではなく、一個の意識としてひたすらに世界を愛しました。そして、果てしなく広がる世界から彼女自身もまた影響を受けたのです。親が子の言動から影響を受けることがあるのと同じように。
絶対神ならば、雲上の高みから下界を見下ろし、常に神々しく輝き続けるでしょう。
けれど、彼女は世界を蝕みつつある虚無に次第に犯されていきました。
彼女は、言うなれば“愛”という名の光でしたが、“愛”というものを忘れ去ってしまった虚ろな存在たちによって、その光が弱まってきたのです。
女神は、世界の創造者であると同時に世界を映し出す鏡でもありました。
無数の虚無に犯され、その光は弱まっていきましたが、それでも“愛”を見失わなかった者たちの光は点在しており、それらの光の希望を集約して生み出されたのが主人公でした。
世界にわずかに残った、希望という名の雫から生み出されたイメージ──それが主人公なのです。
主人公は女神と点在する光たちから希望を託されはしましたが、決して女神の傀儡(かいらい)ではありません。
彼もしくは彼女を呼び、そして惹きつけて止まないのは、女神という鏡の向こうにある、点在する光たち。
主人公は、そんな光のかけらを一つ一つ拾い上げ、希望を紡ぎ、そして一つの大きなうねりを生み出します──停滞してよどんでいる時代を突き崩し、再構築する大きな奔流を。
“英雄”とは、世界を救う存在としての華々しいそれではなく、よどんできた時代に楔(くさび)を打ち込む役割を果たす者のことを差すのでしょう。

ちなみに、私の個人的設定では、主人公は恋をしません。
というよりは、特定の人と深く結びつくことがないといった方が正しいかもしれません。
誰かに惚れられる事はあるかもしれませんが、彼/彼女自身は、誰にも心を捕らわれません。
彼/彼女は“希望”から生み出されたイメージであり、純粋な希望の結晶であるため、この世界では常にニュートラルな立場にあります。
そのため、ファ・ディールの住民とのしがらみを彼/彼女は持ちません。
人の痛みをつぶさに見て回り、人の心のよどみを払う手伝いをし、そして徹底的に傍観者であり続ける彼/彼女は、世界中に次第に満ちてくる“愛”の光に包まれていながら、永遠の孤独の中にいます。
女神でも、ファ・ディールの住民でもない、第三者が聖剣を手に取り、住民達の闇を払い、己の闇も乗り越え、そして世界のために活路を切り拓いていくのです。
ガイアにも「道化」と評されているように、彼/彼女の与えられた役回りはとても損なものです。
けれど、だからといって彼/彼女が不幸だとも私は思いません。
痛みを知る者こそが、喜びを真に味わうことができるからです。
賢人ならばいざ知らず、“人間”として傍観者であり続けることは、大きな苦痛と孤独が伴います。
けれど、そこには人間としての喜びもまた、たしかにあるのです。
やがて賢人へと昇格していくマチルダが失いつつあるものを、彼/彼女はずっと身の内に秘めて、己自身を傷つけながらも突き進んでいきます。
ドミナの町外れにぽつんと建つ小さな一軒家…それだけが、彼/彼女のこの世界における拠り所です。
けれど、そのこぢんまりとした家の内はなんと暖かであることか。
帝国や宗教も瓦解や縮小の道を辿り、世界が大きく根底から揺らいでいる最中(さなか)、信ずるに足るものがなく不安に陥っている住民達に、彼/彼女は希望という名の光を掲げるのです。
文字どおり何一つ持たず、権威にも何ものにも拠らない我が身をさらけ出すことで、そんなものがなくとも生きてゆけるんだと思い出させ、再び歩き出す力を皆に分け与えるために、彼/彼女は今日も旅を続けるのです。

限りなく悲しく、そして愛しい存在。
女神の愛し子(めぐしご)らを助け、生かし、殺し、泣き、笑い、
どこまでもどこまでも旅を続け、終わりのない夢を見続ける、永遠の子供。
人の優しさに包まれ、人の残酷さに身を切り裂かれて、
彼/彼女は青空をあおぐ。
この世に生まれ出た時の空も、草人達が旅立っていった時の空も、
そして、今頭上にある空も、変わらずに青い。

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自由意志

この世界、ファ・ディールにおいて、必要不可欠とされるのは、自由意志だと私は思っています。
ゲーム中に出てくる“自由”と“イメージする力”、これら二つを合わせて“自由意志”と私は呼んでいます。
そして、この自由意志の源は、人間の“欲”です。

主人公が、世界を救う“英雄”という立場でありながら、賢人でも超越者でもなく“人間”でなければならなかったのは、人間によって壊されてしまった世界とマナの樹を救うのは、壊した者と同じく、人間でなければならなかったからです。
女神や賢人らが手出しをして世界を救っても根本的解決にはならないし、第一、女神や賢人らには、そのような力はありません──実際のところ。
彼らは既に(あるいは元から)、世界を現在も構築し続けている創造の連鎖から外れてしまっており、世界を壊したり造ったりできるのは、イメージを紡ぐことのできる住民──すなわち人間だけだからです。
この、世界に影響を及ぼす力の源が“欲”なのです。
賢人らは、世界を変える力そのものは持ち合わせていても、個人的かつ恣意的な欲望は持っていないため、実際には世界を変えられない(いや、変えないというべきか)というわけです。
彼らにできるのは、ちょっと足踏みをしていたり道に迷っている人に、彼が本来求めている道すじを指し示してやることだけです。
 『キミに全てをまかせる。しいて言うならば、それがボクの力だ。』
彼らは、世界を紡ぎ続けている生けとし生きるものの営みを静かに見守り続けています。

そして、世界の住民である人間達の“欲”は、それが本心から出ているものであれば、どんなものでもその存在をゆるされます。
世界を破壊しようと目論むアーウィンも、ルクこそ至上のものと崇める守銭奴のニキータも、その生きざまが彼らの真の望みである限り、彼らはファ・ディールに存在しえるのです。
これは裏返せば、己の意志を放棄することはゆるされないということでもあります。
己を、希望を見失い、虚ろになってしまったディドルは、あやうくシャドールの闇に呑み込まれてしまうところでした。
常に己の内なる欲求を見つめ、それに対して真摯に生きる。
これが、ファ・ディールにおいて生きてゆく上での唯一の掟といえるものです。
 『選択できるのは、いつもたった一つ。自由という選択だけ。』
結果だけを見れば悪行であっても、その裏にあるのが真摯な思いであれば、世界はその人をゆるし、包み込んでくれます。
行いに対して審判を下すのは、女神や賢人ら──もっと広くいえば他人──ではなく、実は己自身であり、それが、イメージが世界をつくるというゆえんなのです。
己の信じた道を貫き通した者には後悔もない。その時点で彼/彼女は、自分自身によってゆるされています。
逆もまた然りです。
そもそも光を知らない者が光を信じるべくもないように、己の信じるところ、己の知るところが、そのまま、その人の住まう世界の形となります。
憎しみで心の内をいっぱいにしている者にとって、世界はとげとげしく荒んでいる忌わしい場所でしかなく、我が子には愛らしいものが似合うと思い込んでいる親には、それ以外の質素なものなどを我が子にあてがうことなど思いもよりません。
だから、積み木のおもちゃを差し出されて、この中に街が存在していると言われ、それをそのまま信じることができた主人公は、世界を想像(創造)し、広げてゆく力に長けているのです。
彼/彼女はアーティファクト使いではありますが、それは魔術によるものではありません。
イメージし、それを信じるという世界の造り方を本能的に知っているため、アーティファクトを触媒として魔術を施行するのではなく、アーティファクト自体の中に眠る力を自在に引き出せるのです。
世界のそれぞれの部分を構築しているアーティファクトは女神自身が造ったものであるため、内包されている世界も大きく、従って、それに見合った想像力(イメージする力)の持ち主でなければその世界を引き出すことはかないません。
(普通の人は、生きていく過程でさまざまな経験を重ねていく内に自分なりの世界を造り上げていくため、その既存の世界を度外視して全く新しい世界をイメージするという主人公のやり方は難しく、なかなかできません。経験と智恵の中からその真理を汲み取り、実行することができた少数の者が、賢者と呼ばれたりするのです。)
自分の住まう世界の殻を破って、イメージを広げることは、己を豊かにすることにも繋がります。
主人公はその冒険の過程で、ファ・ディールの住民達の、それぞれの世界を広げる手伝いを少しばかりしているのです。
最終的にそれぞれの世界を広げるのは、手助けした主人公ではなく、本人の意志。
それぞれが、それぞれの自由意志で己の世界を構築し、発展させてゆくのです。

見たまえ。目の前に広がる世界を。
マナの木は失われ、人が本来、自然と求めるもの…希望や夢も消えゆこうとしている。
世界は、闇に覆われつつある。

けれど、それでも世界は美しいと思わないかね?
闇を生みたもうた女神の思いの発端は、己の姿を見たい、それだけのものであった。
光と闇を善悪の天秤にかけて審判を下すのは、たやすい。
けれど、どちらかだけではこの世界は成り立たないんだよ。
人も同じだ。
闇を知らぬ者が善なる者なのではない。
光を感じる者が、愛を知る者なのだよ。
闇を恐れてはならない。
人は、誰でも光と闇を共に己の内に抱えているのだからね。

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英雄と双子

他人とのしがらみを持たない主人公ですが、唯一、彼/彼女の心に少しだけでも踏み込めるのは、バドとコロナじゃないかと私は思っています。
家族や仲間というよりも、師弟・同居人…そんな言葉がしっくりくる間柄だからこそ、危ういバランスの上に成り立っているのでしょう。
血縁関係もなく、知り合いでもなんでもなかったからこそ、それぞれが絆というものの脆さと大切さを骨身に沁みてわかっているし、純粋に“絆”の本質を見て取れるのだと私は信じています。
そして、双子は英雄というものを盲信していません。彼らのお父さんの言葉が、今でも胸に残っているからです。
英雄になるよりも父でいたい。そう言える人がこの世に存在したこと、そして英雄が必ずしも至上のものではないと理解している人が目の前にいる。
そうした事実が、主人公を支えています。
英雄と呼ばれ、神聖化されていくにつれて、彼/彼女の孤独は深まりますが、それでも彼/彼女を人間として繋ぎ止めているのが、家にちゃっかり居ついているやんちゃな双子なのです。
だから、双子は、主人公にとって本当に、大切な存在なのです。
親を失った孤独と英雄としての孤独…それぞれが抱えている孤独を、傷をなめ合って癒すのではなく、痛みを忘れないまま、時に寄り添い、時に突き放したりしながら生きてゆく。
親のいない穴を英雄が埋められるはずもなく、英雄の孤独を同居人が癒すべくもない。
それでも一緒にいるのは、寂しさを埋めるためじゃなくて、時に暖かなものを分かち合えるから。
やじろべえのように、危うく見えながらもちゃんとバランスを取ってやっている、そんな間柄だと思っています。

父/母でもなく、兄/姉でもない。友人でもない。
僕/私の、『師匠/マスター』。
あなたの背中ばかりを、僕/私は見続けています。
でも、いつか追いこしてみせる。
そして、肩を並べて、一緒に笑うんだ。


全く、君たちが来てからというもの、もめ事がいっそう増えたような気がするよ。
形見のほうきが無くなったと大騒ぎしたり、いきなり病気で倒れたり。
本当に、手がかかるね。
でも、不快じゃないのは何故だろう。

一つだけ、確かなことがある。
僕/私が「ただいま」と言える相手は、君たちだけだ。
…ありがとう。

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