“石”の宿命

 何千年も生きていれば、時には考えても詮無いことに思いをめぐらせることもある。

 なぜ、我らはこのような宿命の元に生まれた?
 なぜにこのような肉と心を持ってこの世に生じたのであろうか。

 マナの女神がこの世界の全てを創ったという。
 それが真なら、女神よ、なぜ我ら珠魅にこのような定めを与えたもうたのか?
 “人”というものを模した姿をなぜ石にお与えになった?
 きまぐれか偶然かいたずらか。

 昔から不思議だった。
 人間は男と女が番いとなり、そして女の腹に子を成して生み育てる。
 子供は大きくなり、そしてまたいつか番いを成し、また新たに小さい命をこの世に送り出す。
 人間だけではない。森の小動物でさえ、晩秋から冬にかけて雌の腹は重たげになり、そして春には小さき生き物が親のそばで無邪気にたわむれている。
 しかし、珠魅はそうした生命の営みとは全く無縁である。
 小さき赤子の姿で女の体から生まれることもないし、親子という関係がそもそも存在しない。
 同じ鉱脈から生まれた者同士を兄弟姉妹と呼び合い、いたわる風習はあるが、それは人間の呼ぶ兄弟姉妹とは意味合いがおそらく違うのだろう。
 家族や恋人という単位は我らの中には存在しない。
 石の輝きによる座の区別やパートナーという単位はあっても、生殖によって一族を増やすことのない我らには男と女という番いは本質的には意味がない。
 互いの傷を互いの涙で癒し合う我らの形態を他の人間達は友愛の種族と称した。
 しかし、人間の方が本当の意味で己の体を削っているのではないか?
 自分の体内に生命を誕生させ、養分を与えて育ててゆくその有様は、まさしく我が身を削ることに他ならないのではないだろうか。
 「血肉の間柄」という生々しい表現が、深い深いところで繋がっている彼らの絆を想起させる。
 己の親、己の子とはどういう感じのするものであろうか?
 我らが同族やパートナーを慈しむ気持ちと同じものなのだろうか。
 野の生き物が己が子の毛並みを丹念になめて整える様子も、人間の母親が我が子をその胸に抱く様も、私には実感として理解することができないものだ。
 私の体は、人間でいうところの女性の成体をかたどっている。けれど、この体は子をはらむことがかなわない。
 か弱い赤子の姿で生まれることもなく、老いさらばえて死ぬこともない代償なのだろうか…命を自ら紡ぎ出せないこの宿命は。

珠魅の喜びも悲しみも誰よりも味わい尽くしたであろうこの人の胸中には、
さぞかしいろんなものがうずまいていたことと思います。
この問いかけに対してポキールはこう答えるような気がします…
「それは君達が望んだからさ。“人間”になることをね。」と。
単なる生態系のトップとしてではなく、理性と本能を分けてしまった
複雑怪奇な“人間”という存在に、それでも憧れる宝石達。
それが、珠魅なのだという気がします。
彼らが手に入れたのは、人間の肉体という形代だけではないはず。
“涙”の存在がきっと、その証し。

[ 文机 ]