栄誉と重責

 「反省の洞」と名づけられたその洞窟の突き当たりには、明かりも灯されていなかった。
 静かに佇んでいる母の前で、少年は珍しく、力なくうなだれていた。
 向き合って座っている二人の上に、沈黙がのしかかる。
「…トト、お聞き」
 母が口火を切るが、少年は未だ面を上げない。
「あそこにあるアーティファクトはほとんどが、先の大戦で使われていたものだ。使い方を誤ると危ない」
 穏やかな母の言葉に、アーティファクトの一つを暴走させてしまった少年はますます縮こまる。
「でも、あなたがあれを動かしたのには、正直驚いたよ。…そろそろ、渡しておきたいものがある」
 そう言って母は背後から何かを取り出した。
 少年は、恐る恐る手を差し出す。
 その小さな手に渡されたものは、美しい一ふりの剣だった。
 四枚の羽が鍔になっているその両手剣からは、力強く暖かな波長が伝わってくる。
 瞳を輝かせている少年に、その剣を大切にするように、と母が言い添える。
「その剣には、あなたの使命が宿っているのだから」
 少年が、え、と母の方へ向き直った時、洞窟の入り口の方でやおら物音がした。
 慌てて少年が入り口へ駆け出してみると、はるか先に、走り去ってゆく妹の姿が見えた。
「イムだ! あんにゃろ、立ち聞きしていたな…」
 母にうながされて、少年はぶつぶつ言いながら洞窟の中に戻ってくる。
「…話はまだ終わっていない。お聞き」
 少年の視線を捕らえて、母はひとつ大きく呼吸をすると、語り出した。
「トト。あなたは、私の使命を引き継ぐのだよ。マナの樹を守り、後世に伝えてゆくのが、これからのあなたの勤め」
 目を見開いている少年に、母は変わらぬ調子で話し続ける。
「マナの樹が世界を浄化しているという話を、いつかしたね」
「うん。毒から守ってくれているんだろ?」
「…その通り。だけど、毒は外からやってくるのではない。毒を発しているのは、マナの樹に守られている人間自身なのだよ」
 少年は、一瞬その意味がつかめず、眉をしかめる。
「人間が地上で争いを始めるまでは、マナの樹が浄化しなければならない毒など、ほとんどなかった──人間の心から生まれた『闇』が世界に充満してきた時、マナの樹はいずれ我が身が朽ちることを予見し、自らを再生させる力を秘めた一本の剣を生み出した」
 そして母は、少年の持っている剣を見つめる。
「…これが、その剣なの?」
 まるで剣が急にずっしりと重みを帯びたかのように感じながら、少年は手の内にある剣をじっと見つめた。
「そう。そして、マナの樹が朽ちる時もそう遠くはない」
 ぎょっとして少年が面を上げると、母は相変わらず穏やかな表情のままだった。
「トト。私は長い間、この樹の守(もり)をし続けてきた。はるかな昔にこの樹と出会い、守る役目を託されてからも、どんどん人の世は澱んでいった。争いが絶えず、同じ過ちを犯し続ける人の世を、この樹はずっと守り続けてきている。だからこそ、私もこの樹を守り続けようと思う」
 母を凝視する少年の瞳には、驚きと、そして不審の色が浮かんできていた。

 じゃあ、母さんやマナの樹を大変な目に合わせているのは、人間達なんだね。それなら、人間なんていなくなっちゃえばいいのに。

 心の中に生じたかすかな刺を、少年は口に出すことなくそのまま呑み込んだ。
 穏やかだが揺るぎない母の表情に、言っても無駄だと感じたのだ。
 人生の残りを全てマナの樹に捧げてしまったこの女性は、そんな息子の心の刺も察知したが、あえて刺を引き出すことも諭すこともしなかった。
 心の闇は本来、それぞれが自身で摘み取らねらばならぬものであり、マナの樹の浄化作用は、それを手助けしているに過ぎない。
 けれど、それは理屈としてではなく、少年自身が今後の旅の中で、身を以て学ばねばならぬことだった。
 母は、一瞬、愛おしげに目尻を緩めた後、再び言葉を紡ぎ始めた。
「トト。あなたとイムを旅立たせる日も、近づいてきたようだ」
 途端に、少年は色めき立って身を乗り出す。
「本当!? じゃあ、俺達はもう一人前になったってこと?」
「今後の旅で、一人前になるのだよ」
 そう言って母は、ふふ、と微笑む。
「ふたりが旅立つ前に、その剣を授けたあなたに言っておくことがある。辛いかもしれないが、わかってほしい」
 急に真剣なまなざしになった母につられて、少年の肩にも緊張が走る。
「あなた達が旅から戻るまで、この樹の命はおそらくもたないだろう。だから、その間は私のマナと身体で樹の命を長らえさせておくつもりだ。…ただし、その場合、マナの樹が再生しても私が甦ることはもうない」
 急に、咽に石を突っ込まれたような感覚に襲われて、少年は顔を歪める。
「あなたがマナの樹と世界のなんたるかを学んだ暁には、その剣でマナの樹を切ることになるだろう。病んだこの樹のマナをいったん離散させ、再構築することで、樹自身は往時の姿へと再生できる。けれど、私はマナの樹の構成要素ではないから、再生の恩恵にはあずかれない」
 少年は、顔を歪めたまま、一言も発しない。
「…トト。あなたは、朗らかで図太くて、忘れっぽい」
 急に方向転換した母の話に、少年はかすかに眉をひそめ、いぶかしむ様子を見せた。
「だから、あなたにその剣を渡したのだよ」
 少年はますますわけがわからなくなり、首をかしげる。
「今はわからなくてもよい。手を下す者として、そんなあなたを選んだ、ということだけは覚えておいてほしい。そして、そんなあなたを支え、手綱を取れるのも、イムだけだ。ふたりで協力して、マナの樹を救ってほしい」
 そう言い、母は限りなく優しい笑みを見せた。
「この樹を甦らせ、そして世界に澱む闇を払うことが、私の心からの願いだ。だから、いざという時も躊躇してはいけないよ」
 少年は、母の話全てに納得がいったわけではなかったが、母がそれを心から望んでいることは理解した。
 だから、剣の柄を握りしめたまま、わかった、とうなずいた。
 途方もない力を秘めた剣と、胸に突き刺さる痛みを抱えて、少年はきゅっと口元を引きしめた。

 愛する母を殺める役目を背負いきれるのは、少女ではなく少年であろう。
 少年には、マナの樹の守としての栄誉よりもむしろ、母をその手にかける業を背負わせた。
 少女には、重荷を背負ってしまった兄を支えられるただ一人としての自負よりも、栄誉にあずかれなかった者としての悔しさを味わわせた。
 願ってしたことではない。けれど、痛みの伴わない道のりなどないのだ。
 そして、マナの樹の守人は、二人がそれぞれの痛みを自力で乗り越えることも、信じて疑わない。
 だから、いつでも痛みを胸に秘めながら、微笑んでいられる。
 マナの樹の内でそのぬくもりを直に感じながら、いつか二人がこの樹の甦った姿を目の当たりにする日を夢見て、彼女は佇んでいる。

 FIN

選ばれないことよりも、選ばれて期待される方が残酷なこともある。
そして、いちばん辛かったのは、我が子に己を殺せと命じた母その人だったはずです。
けれど、余生も何もかもマナの樹に捧げてしまった彼女からは、悲嘆や悔恨の色は全く読み取れません。
利他的であることと、己というものを保持することは矛盾しない、よい証しがここにあります。

そして二人はその後、母の期待を裏切って新たな血路を切り開いていきます。
子が親を越えた瞬間です。

[ 文机 ]