野の草に兆すもの

(私は草だ。
 大地を離れることがかなわない、野の草だ)

 かっと照りつける鮮やかな日差しの下で、うなだれる少年がいた。
 女子(おなご)のように優しい顔は憂いに曇っている。

「ああ、風になりたいなあ」
 風変わりな少年の師は、その時も唐突にそんなことを言ってのけた。
 そう言いながら彼の仰いだ大空には凧が飛んでいた。
 凧ではなくて風なのですかと少年が問うと、少年の師は、私は風がいいんですよ、と答えた。
「凧は近藤先生だから」
 そう言い、その師はあどけない笑みを浮かべる。
 自分は風となり、凧である先生を高く高く吹き上げるのが本望なのだとまぶしそうに凧を見上げた、その師の背中こそが少年にはまぶしかった。そして、せつなかった。
 己のしていることを見失いそうになる、ふと揺らぐ瞬間にも、少年の敬愛するその人はさらりと自分の本懐を語ってみせる。
 その口調の軽やかさは、気楽さ故ではなく、己の信じたものに全てを賭けてもいいと腹を括った人間が見せる、あの一種の透明感が醸し出したものだ。
 少年は己の思いを語り尽くす術は持たなかったが、師の笑顔の裏にあるそうした覚悟は手に取るようにわかった。
「先生を大空高く舞い上がらせるんです。そんな仕事ができるなら、私は死んだってかまわない」
 師の言葉の余韻が、脳裏に鮮やかに残っている。
「そして、あれが土方さんだ」
と、ふふっと笑って少年の師が見た先には烏がいた。
 烏は、ただ一羽きりで、けれど悠々と大空を飛んでいた。

(皆、大空へ飛び立っているんだ)
 自分の師やその師が敬愛する人達は、遙か遠い。
 同じ志の元に集った同志でありながら、熱い思いは同じであるはずなのに、交錯することのない視線。
 凧は無心に大空をめざし、そしてそんな凧に惹かれた者は、あるいは烏となって凧と共に飛び、或いは凧を吹き上げるためだけの風になろうと上だけを見上げている。皆、上だけを見上げている。
 そして、少年もまた、そんな風である一人を見上げている。
 凧を吹き上げるためだけに生きる風が、大地に張りついている野の草をふり返るはずもない。
 未だ大空を飛ぶことすらかなわないという思いが少年の胸を重苦しくする。
(どんなに風に焦がれても、私は大地から飛び立つことすらできない。
 思いに焦がれ、揺れるだけのむなしい草だ…)
 少年が師と繋がっていられるのは、同じ隊に所属しているという絆のおかげに過ぎない。
 けれど、師はそんな絆を乗り越えたところに佇んでいる。
 そうした絆や同盟がなくとも、師は凧を追って風たらんとし続けるだろう。
 そして、そんな絆でしか師と繋がっていられない自分が、少年はたまらなく歯がゆく、そして悔しい。
 自分の心底憧れるもの、生涯を捧げて惜しくないと思えるものに出会えることが男の本望だとしたら、すでに少年もその齢(よわい)にしてそうしたただ一つのものを見つけていることになる。
 けれど、少年は少女の面影を未だ捨てきれず、そして師達のそうした熱い思いを魂で感じることができながら、女としてただ一人の人にふり返ってもらいたいという思いに心を引き裂かれ、のたうち回りたい衝動にかられる。
 しかし、それでも少年は少女に戻ることはしない。少年の望みはただ一つ、この風を守り抜き、この風のそばで死にたいということだから。
 女として愛しい人と一緒になり、その人の伴侶として一生を終える道を投げかけられても、少年はきっぱりとそれをふり切るであろう。
 なぜなら、少年が惚れ込んだのは、武士としての師だからだ。
 何かを守るために人を斬れるその強さと、人殺しでありながら弱い者へ笑みを向けられるその強さに、少年は惹かれた。
 その笑みは、愛しい伴侶に向けるそれではない。あくまで武士としての優しさに過ぎないのだ。
 既に自分の生きる道を定めてしまったその男の強さと優しさに惚れ込んだ男装の少女は、その男気に恥じない生き様を自分もしたいと願っていることすらまだ自覚にない。
 ふり返ってもらいたいと揺れる幼さの中に、たしかに萌えいずる凛としたきらめきは、やがて開花する。

 少年は知らない。
 空高く舞う凧や烏が実は、未だ大地に佇んでいる草をどれだけ認めてくれているのかを。
 凧しか眼中にない風が実は、草を大地にそのまま置いておきたいという思いに揺れていることを。
 瑞々しい、生い先楽しみなこの若草を無惨に散らさせたくはないという優しい思いは、この無骨な武士(おとこ)達の胸にたしかにあるのだ。
 よく笑い、よく怒り、快活でまっすぐな気性のこの少年を心地よく思わない者がどこにいようか。
 けれど、若草は若草のままではいられない。
 開花の時期は、静かに、けれど確実に近づいてきている。



 その日は朝から蒸し暑かった。
 後に池田屋事変と名付けられたその討ち入りの中で、闇の底、一輪の花が開いた。
 花のような鬼と長州方の落人(おちうど)に称されたのは、神谷清三郎。
 歳は当時二八(にはち)、まさに花盛りであった。

セイちゃんをあえて「少年」と描写したのは、
彼女が武士(おとこ)たらんとしているからです。
武士という形で沖田先生と共に生きようとした彼女の男気が、たまらなく愛おしい。
女であるという甘えをふり切り、男として生きる道を選び取った彼女はきっと、
笑いながら死んでいけるのでしょう。
己の誠を貫く彼女の姿をこれからも見ていきたいです。

※これを書いたのは、コミックス8巻まで読んだ時点です。

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