予兆

 音なき音が、豊かに響き渡る。
 時にきぃーんと澄み渡り、時にりんりんと涼やかに共鳴し合う光達。
 しかし、そんな美しい音色に気づく人はほとんどいない。
 せわしなく立ち回り、心が今いる場所にない人には届かない音なのだ。
 暗い、暗い夜のスラム。“腐ったピザ”の下からは星影も見えない。
 けれど、その星やたくさんの生命達の美しい音色に耳を傾けている者がいた。
 暗闇の中から、美しい生命の流れがひとすじ空へと立ち上ってゆく。その淡い光の中に浮かび上がるのは、祈るような少女の姿。
 生命の流れが出てきた元には、白い小さな花が群れて咲いている。光が差さないこのスラムで、なぜかこの場所には花が咲いていた。その空間だけ、花のかすかだが甘い香りで満たされている。
 その香りの中でしばし生命の流れと対話をしていた少女は、やがて組み合わせていた両手を解き、立ち上がる。雑然としたスラム街の中へ、花を売りにゆくために。
(今日もみんな、変わらずに生命の河を踊りながら流れ続けている。
 でも、この街は命がいっぱいなのに相変わらずみんな死んでる。
 さて、今日は誰の心にこの花を届けられるかな)
 そして、車が轟々と行き交う街角に少女は立つ。
 この花を愛で、そしてあの豊かな生命の音色に耳を傾けられる人を求めて。
 乱暴にそばを通り過ぎてゆく車に、少女の髪やスカートの裾がまくり上げられる。
 この日はいつになく街がざわめいていた。
(なにかあったのかな…?)
 けれど、スラム街の人々だけでなく、生命の流れもいつに増してさざめいていた。
(きっと、なにかが起こる。そうね、この花を買ってくれる人がもうすぐ現れるんだわ)
 そう思い、少女は上を見上げる。“腐ったピザ”の向こうの空の星々を感じながら。

 魔晄炉から生み出される光でギラギラと照らし出された都市が、高く、けれども空の下に小さくぽつんとそびえ立っている。
 花売りの娘も、魔晄炉を支配する者も、そして一人の兵士も皆、その中にいる。
 轟々と音を響かせながら走る列車は、乗客と共に“運命”も運んでいた。
 少女に、そしてこの世界に変化をもたらす兵士を乗せて列車はある駅に滑り込んでいく。
 列車の車輪が動き始めた時に全ては動き出していたのだ。
 時は止まらない。
 そして少女のそばにまもなく兵士が一人立つ。
 誰もが予想しない方向へと今、運命の歯車が動き出した。

 “約束の地”へと向けて。

はじまり、全てのはじまり。

ゆらゆらと漂っていた安逸な世界は破水し、
かりそめの記憶は押し流され、
それでも皆、前に進んでゆく。もう戻れない道を。

そして、今日も波打つ翠色のうねりの中、彼女の笑い声が響く。

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