トンネルのこっち側

 引っ越し早々、あたし達一家は変人扱いされた。
 今じゃ、お父さんもお母さんも、近所のみんなもそんなことは忘れてしまったみたいだけど。
「今日は×日ですよね?」
 挨拶の時にお父さんが発した言葉に、新しいお隣のおばさんの顔が強張った。
 ちょっとした問答があったけれど、おばさんが家の奥から取ってきた新聞の日付を見て、今度はお父さんとお母さんが固まってしまった。
 昼間の内に引っ越してきたと思っていたら、いつの間にか何日か経っていたわけだ。
 あたしだけが知っている。時間が過ぎていたわけ。お父さんとお母さんの記憶がないわけ。

 あれは夢じゃない。
 そう思いたい。
 だって、どんどん記憶は遠ざかっていく。
 あのおもちゃみたいな通りの変な看板も、薬湯の香りも、電車からの海の眺めも、どんどん薄くなっていく。


 最初は、これは夢だと思った。強く頭を振った。
 覚めろ! 覚めろ!
 でも、まばゆい船からは変なお札の顔の人がどんどん降りてきて、夢は醒めずにどんどん悪い方向へ向かっていった。
 あたしの名前を知っていたハクだけがすがれる一本の糸だった。
 そう、ハクのことをあたしは忘れていた。
 会っていたのに。会ったことすら、あたしは知らないでいた。
 なのにあの瞬間、急に思い出した。
 空をうねりながら飛んでいくハクの背中にしがみついていた時、あの速い水の流れの中を運ばれたことがふいによみがえった。
 たった今全身に押し寄せている向かい風と、あの時あたしを容赦なく流していった水の勢いが、頭の中で音を立てて重なり、そしてあたしはハクの本当の名前を思い出した。
 そして、本当の名前を告げた瞬間、ハクも記憶を取り戻した。
 でも、今思えばハクには帰る場所がもうなかったのだ。
 銭婆さんが、ハクのことを優しくて愚かだと言っていた。
 ハクが優しいのは最初からわかっていたけれど、愚かというのはよくわからなかった。
 湯婆婆さんの言いなりになっていることを愚かだと言ったのかと思った。
 多分、そうなのだろう。そして、また違う気もする。
 なんだかふいに、ハクが人間のように思えた。
 神様なのに。
 悩んだり苦しんだりする神様。
 そして、笑うんだよね。人間みたいに。

 そういえば、オクサレサマもきれいになった時は嬉しそうだった。
 河の神様なのに、汚れちゃうとオクサレサマって呼ばれるんだ。
 人間が、神様を汚しちゃった。
 ハクの居場所も、人間が無くしてしまった。
 なんだか、胸がきりきりと痛かった。
 そして、あそこにはハクの居場所があると思うと、じんわりと心があったかくなった。

 時間が経つにつれて、だんだんと思い出がぼんやりとしてくる。
 けれど、引き出しを開ければ銭婆さんがくれた髪止めはちゃんとそこに入っている。
 大丈夫。忘れない。忘れても、きっと覚えている。
 だって、ずっと忘れていたハクのことをあの時思い出せた。だから大丈夫。


 引っ越し騒ぎで数日ドタバタした後、あたしはいよいよ新しい学校に通うことになった。
 一緒に学校まで行ったお母さんは、引っ越してきた時に近所から変人扱いされたことを愚痴りながら、そんなことは学校で話しちゃ駄目よとあたしに釘を刺した。
 もちろん、言うわけない。
 だって、神様やお化けの入るお風呂屋さんで働いてただなんて、誰も信じっこないもの。
 あたしだって最初は夢かと思ったし。
 ちょっと淋しいけれど、これはあたしだけの秘密の思い出。

 職員室で、お母さんとあたしは新しい担任の先生に挨拶した。
 お父さんみたいに体ががっちりした、けれど背の低い男の先生だった。
 先生は汗を拭きながらやたらにお母さんに頭を下げ、お母さんも先生に頭を下げ、そしてようやく大人達の挨拶が終わるとお母さんは帰っていった。
 すると、先生は途端に偉そうな感じになって、ふんぞり返りながらあたしの名前を呼んだ。
 それを見て、思わずあたしは顔がにやけてしまった。
 だって、あの番台蛙さんにそっくり。
 美人の先生がそばを通ると途端にへらへらと笑って挨拶するところも、脇を通るお客さんに丁寧に挨拶をしてた番台蛙さんがそのまま人間になったみたい。
 今度の先生は当たりだ。きっと、楽しめるぞ。

 そして、あたしの入ったクラスにも、よく見れば、オシラサマみたいな太った男の子、リンみたいな勝ち気の女の子…初めてなのに、なんだか前から知っている気がする。
 うん、あたし、ここでもうまくやっていける。
 最初はつまんないところへ引っ越して来ちゃったと思ってたけど、ここも面白そう。


 ハク、釜爺さん、リン。湯婆婆さん、銭婆さん。そしてカオナシさん。
 みんなみんな。
 あたしは元気よ!
 あまり一緒にいられなかったけれど、時には忘れちゃうかもしれないけれど、でも、いろいろとありがとうね。

 あ、お母さんが呼んでいる。そろそろ行かなくちゃ。
 それじゃまたね。

あっちとこっちの境目は意外にあいまいで、
そして住民も、大きく違うようで実は似ていたりする。

あっち側のことだから幻になるんじゃなくて、
忘れていくから幻になっていく。
でも、忘れていてもそれが無かったことになるわけじゃない。

ハクもカオナシも、きっとこっち側にもいる。

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