蝶・きままWJ感想

■2008年-11号(デスノ特別読切) 02/13 (水)
DEATH NOTE 特別読切センターカラー
※今回は読切そのものに対して批判的な感想です。そうした感想を求めない方は読まないのが吉。

正直、デスノはあの最終回できれいに幕を引いたと思っていたので、今回の読み切りは嫌な予感がしたのだが、案の定でした。しかし、今回買って読まなければ気になって仕方なかったであろうことも事実。
大場先生は、映画の宣伝のために、書きたくもない物を書かされたんだろうな、とため息。読んだ私もため息。
でも、デスノに関しては、原作と小説1冊以外は、映画もアニメもグッズの関連もノータッチ、そして「OVER TIME」の打ち切り以来はWJをぷっつりと買わなくなっていた私でも、原作者お二人のタッグで“原作”が再び登場とあっては、やっぱりWJを手に取ってしまいました。恐るべし、デスノの磁力。

感想としては上記の「案の定」なのですが、せっかくの原作復活なので、感想を交えつつ、解釈もちょろりと書いてみます。
急いで書いているため、内容もぐだぐだかと思われます、すみません。

さて。
冒頭の1ページ目からいきなりWJを閉じたくなったんですが。
「Lがキラ 夜神月に殺されて9年」
殺されたと断言するなぁ! うわーん!
やっぱり、憶測や夢見る余地を残してくれた原作の最終回のままで、すぱっと終らせてほしかった…。
今回の読切は、作者が意図したであろう本編の締めくくり方を鑑みた上ではやっぱり、蛇足です。皮肉でも嫌みでもなく、そう思います。

で、次ページ目で今度は月(キラ)派がぐはっと吐血するわけですね? L派だが、月が無惨な結果になっているこのシーンも未だにカタルシスを感じないんだよなぁ…。結局、『ゼロ地点への回帰』という虚無感をベースにしていたから、仕方がないのか。

「これはノートを本物かどうか確かめずに燃やしたニアのミスっすよ」
いや、確かめなかった(=ノートを使わなかった)ニアは本当に偉いですよ、松田。Lでさえ、ノートを試してみたい誘惑にかられていたのだから。このノートは、使ってはならない代物。
ニアのこの点を評価している人達がくだんの警察チームの中ではいなさそうなのがなんとも残念。

「キラと呼ぶのはやめてください。失礼です。Lにも、キラにも…」
ニアが小さく、「キラにも…」も付け加えていることに、目をみはった。ニアもまたLのように、『キラ』を捕えるべき対象と割り切っていながら、そのプライドや信念をも認めていたのか。本編ではあっさり割り切っているように見えたので、この辺は熱いなぁ。
つまり、L対キラという二人の戦いは、単に現実世界における善悪の決着という表面上の有り様を超えたところにある、プライドや信念をかけた命がけの勝負ということでもあった。ここだけは少年漫画しているなぁ。

Lがメロとニアに肉声と素顔をさらしていなかった──つまり、直に対面したことが一度もなかったという事実に驚愕。なんとまあ。
それでいながら、日本警察や月に、更には日本の某大学でも素顔をさらしまくっていたわけですね。なんというか、この大胆さと慎重さのアンバランス(いや好バランスというべきか)がまた面白い。やっぱりLはいいキャラクターだなぁ。
そして、「難事件を解決するのは趣味です」と断言していたところは、かつて私が想像していたL像にぴたりと当てはまって嬉しい。
私が探偵の道を選んだ理由は二つ。
一つは、ひどくもつれてしまった凧の糸のような謎を解き明かして整合をもたらすこと。
そしてもう一つは、私の知的好奇心を満たすこと。
(昔書いたSS『宿望』より)

…しかし、「正義ではありません」とまでLに断言させてしまっていることから、やはり、キラとLのどちらが正しいのか、という善悪の判定を殊更にあやふやにしてしまっているのがわかる。ここに、かつての最終回と同じ作者の意図を改めて感じる。
つまり、『この漫画は、善悪の一つの形を示す作品ではない』ということを改めて強調しているのである。ここだけは譲れない、作者の主張なのだろう。
けれど、Lにも正義心はあったと思う。そして、あの月(=キラ)にも。私は大のアンチ月だが、その点だけは認める。このそれぞれの『正義心』を──少なくともLの側の正義心すらも否定しないと通らない主張というのも、少々無理があって、哀しい。
作品のテーマと登場人物のキャラクターの齟齬だ。
大場先生は、今回はキャラの在り方よりもテーマの方を取ったということだけなのだろうが、Lファンとしてはこの歪み(とあえて言わせてもらう)が残念でならない。

「この人殺し」
最初はピンときませんでしたが、ニア、すごいな…。結局犯人の正体や居場所も全く把握しないままに、あっさりとチェックメイトしてしまいました。
そして、Lならば確かに、電波ジャックしてまで、犯人にこの台詞は言わないのだろうな。かつて、月がキラではないと判定できてしまった時にキラ捜索を放棄してしまい、ぼんやりしていたあのLならば。ああ、私もLの面影を追い求めてやまないニアと同じだ。
でも、Lとは違うニアのやり方も私は大好きです。今回の犯人を結局は看過しなかった(ニア本人はそのつもりではなく、本当に捨て台詞のつもりで言っただけかもしれないが)のだから。

そして、このニアの一言で錯乱し、自害してしまったということは、今回のノート所有者は既存の『キラ』という偶像とその信者に守られ、且つ、かつての『キラ』のような無差別の「大量殺戮者」の汚名を避け、『善い事をしている』というちゃちな自負で自らを鎧いながら、こっそりと全能感と優越感にひたっていた者だった、と。
ニアにシンプルな現実を突きつけられるまでは、虚構のゲームの世界で架空のモンスターをばったばったなぎ倒す感覚で、ノートを使っていたんですね。
今回の読切は、現在の日本の長寿化の問題を風刺していますが、それ以上に、ノートと人の死をゲーム感覚で取り扱ってしまうという在り方──この作品自体が孕んでいた問題を、自ら揶揄するような形で最後に斬ってみせた。
デスノートは、人殺しの道具でしかない。
この主旨を改めて示したのは個人的に評価したいです。

さて、今回の読切では『善悪を定義しない』ことと『デスノートは所詮人殺しの道具』という、本編と同じテーマをきっちりと骨子にしています。
この辺りは大場先生の変わらないスタンスをかいま見させてもらった思いです。
…ただ、本編の108話目で締めくくったはずの話の続編を書かされるという時点で無理があったと思うし、テーマはきちんと継承されているものの、今回の読切りを一読した時の感想は、最初に書いた通りの「案の定」でした。むー。
解釈を試みる作品としては面白いのだけど、ただの感想としては私と同様、『面白くなかった』と感じる読者が多そうな予感。今回のテーマからいえばこの話は結局、『ちょっと一波乱ありましたよ』という報告(物語ではなく)に過ぎないわけだし。
そもそもが、デスノ本編のラストの無常観(あるいは虚無感)の強烈さは、長い連載中の絶え間ない怒濤の展開があってこそ生きた手法であったわけだし、今回の限られた読切りの枠内で、本編と同じようなラストの落とし方をしてしまうには、中間の盛り上がりに欠けていたと言わざるを得ない。限られたページ内でできる限りの盛り上がりを示そうとしているのは読み取れましたが…。

蛇足であることを百も承知の上で書かざるを得なかった大場先生の立場を思うと複雑な気持ちだけれど、久しぶりにニアを見られて嬉しかったです。Lはやっぱり、生きている。ニアが現在も、Lを絶えず意識しながら仕事をこなしている。この事実が、嬉しい。
そして、タロットタワーを作っているニアの左手にはLの指人形、右手には己(=ニア)とメロの指人形。この三人はずっと一緒なのだと暗示してくれているようで、嬉しい。ニアの心の中には、Lとメロがしっかりと根づいているのですね。じんわりきます。
(今回の読切が、Lが主役の映画の宣伝を兼ねているため、話中でL関連に大きく触れたのだろうが、そうした大人の事情は度外視しても、Lの登場頻度が高めだったことが素直に嬉しいです。)

Lの意志は死なず!

[次頁]  [目次]  [前頁


- Press HTML -