* 断章 *
* 乾風(ブロスコミックス4巻表紙)
遮るものとてない平野を吹き渡る風が、彼女のマントをはためかせている。
その耳飾りの鈴も、チリンチリンと乾いた音を立てた。
黙々と歩いていた猫の獣人はふと、風に誘われるように面を上げて遠くを見やった。
風の吹き去ってゆく先には、遥か遠くに山の稜線が霞んで見えるだけだった。
たなびく毛の隙間からのぞくその瞳は、一瞬悲しげな色を映し、そのまま色合いを変えてゆく。
『私は、どうすればいいのだろう』
何度も心の中で繰り返してきた問いだった。
彼女はただ逡巡しているわけではなかった。答えを求めて、岩の賢人にも知恵を乞うた。
けれど、結局事態は何も変わっていない。いや、むしろ少しずつきしみ始めていた。
『マチルダ…私はあなたを救いたいだけなのに』
本当は、答えは既に彼女の中にあるのかもしれない。けれど、彼女はそれを直視することを無意識の内に避けていた。
吹きすさぶ風は、うつろな風音だけを残して消えてゆく。
彼女の心中の葛藤を示すかのように揺れるその尻尾の先に、いつの間にか一匹の妖精が座っていた。
二匹、三匹と、風に乗ってやってきた妖精が次第に彼女を取り囲み始めていたが、彼女の瞳には映らなかった。
妖精を視ることのできない彼女には、その透き通った羽音も聞こえない。
リィンと耳飾りがひときわ高い音を立てた。
視線を前方に戻し、彼女はまた歩み始める。
サンダルが、ジャリッと乾いた音を立てた。
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* 師匠
「コロナ、私の手は血で汚れているわ」
ルキアはそう言って、両手をコロナの前に開いてみせた。
白い手だった。どこも赤くはない。
ごつごつとしているのは、たこ。
武器を取り、戦い続けた英雄の証。
多くの人を助けた証。
私達双子も救ってくれた手。
お父さんみたいに丈夫で、お母さんみたいに優しい手。
それは、ペット小屋にペット達の寝床を運び込んでいた手。
ほし草を腕いっぱいにうんせと抱えていた。
そして、丹念にほし草をそれぞれの場所に敷きつめていた。
ペット達は嬉しそうに飛び跳ねて鳴いた。
ほし草からは、お日さまの香りがした。
それは、暗闇の底に明かりを灯してくれた手。
初めてあの家で夜を迎えた時、家の中はとても暗くなった。
ジオと違って家の外は暗く、だから中に差し込む街の明かりもなかった。
バドと一緒にテーブルに付いたまま縮こまっていたら、突然明かりが灯った。
ランプの炎に照らされて、唐突に家の主の顔が黄色く、まぶしく浮かび上がった。
泣きそうになった。
誰かがいてくれるだけでこんなに嬉しいということを今まで知らなかった。
その日はぐっすり眠れた。久しぶりに。
それは、洗濯物を干していた手。
洗濯物は、きれいな手じゃないと触れないから。
だから、清潔な手だったはず。
ぱぁんと勢いよく振った洗濯物の白が、青空にひるがえった。
気持ちよく晴れていた。空も心も。
汚れてなんかいない。
七つの少女は、伝えるべき言葉を求めて視線を泳がせた。
そして、自分を見つめる視線とぶつかった。
そのまま、その視線に釘付けになってしまう。
いつも笑みを浮かべている口元は、今は生真面目に引き結ばれている。
そして、その瞳が全てを雄弁に語っていた。
深い海のような瞳には自分の顔が映っていた。鏡のように。
そしてその瞳の水底には、さまざまな感情が絶え間なく揺らぎ、押し寄せ、飛沫を上げていた。
優しさと強さがせめぎ合い、喜びと悲しみが交互に打ち寄せ、希望と絶望が溶け合うことなく入り交じり、悟りと迷いが不思議な同居を呈していた。
なんて。
なんて深いのだろう。この人は。
母のような、母でない人。姉のようで、姉ではない人。友人みたいな口をきくこともあるけれど、友人でもない。
そう、「マスター」だ。私の師匠。
私が敬愛してやまない人。追いつく日は来るのだろうか。
今また、この人の懐の深さを知った。
私にかけられる言葉なんて、ない。
でも…
首をぶんぶんと横に振るのがせいいっぱいだった。
汚れてなんかいない。
「…どうしようもないことって、あるのよ」
ぽつりと洩らしたルキアの言葉が、緊張の糸を切った。もう、限界だった。
コロナは、わっとルキアの胸に泣きついた。
ルキアの腕の中で、涙がぼろぼろと出て止まらなかった。
でも、苦い涙ではなかった。
辛いもの、悲しいもの、そんなものが涙となって、暖かく溶け出していった。
胸につっかえていたものがぱらぱらとほどけてゆくような、そんな心地よさを感じながら、コロナは泣き続けた。
お父さんとお母さんが死んで私達が助かったこと、よかったなんて思えない。
でも、この人に会えてよかった。
マスター。
…ありがとう。
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* 姉妹
リィン、リィン──
冷たく月光を照らし返して佇む門から、ふいに涼やかな音が響いてきた。
「来たわ」
内側にいた二つの人影が、門の入り口を取り囲む。
「──ただいま」
月光を背負って、一人の少女が門をくぐって入ってきた。
その手には、今し方門の脇に並べ終えた後に回収した宝石が握られている。
「あなたが最後よ」
桃色の髪の少女が、ふふっと微笑むと、出迎えられた少女は、なんだ、とつまらなそうに肩を落とす。
ふさりと銀杏色の髪が落ちかかってその表情を隠すと、もう一人の少女が、そんなに待ったわけじゃないから、となぐさめるようにその顔をのぞきこんだ。
本当?と少女が尋ねると、ええ、と空色の髪をした少女はにっこりする。
「とにかく、これで揃ったわね」
その言葉と同時に、三人の胸の核がキィンと大きく共鳴した。
髪の色や服装は異なっていたが、三人の顔立ちやそれぞれの胸に輝く核は、よく似通っていた。
「一人、いないけれどね」
桃色の髪の次女がまたもやクスクス笑うと、エメロはまだ子供だから、と銀杏色の髪の三女も一緒に笑う。
「本人が聞いたら、怒るわよ」
そう言いつつも、長女の唇にも笑みが浮かんでいる。
「…ところで、首尾は?」
長女の一声で、後の二人もぴたりと笑うのをやめ、声を落として返事をした。
「東南地方には今のところ、帝国兵の勢力はほとんどいないみたい…といっても、既に荒らされてしまった後だったけれどね」
「東北地方は、まだ帝国の手に落ちていないけれど、とてもピリピリしているわ…パール様の噂も聞けなかった」
「そう…東地方も、収穫はなかったわ。帝国が狙っているから、珠魅の『じ』の字も出せないし、パール様の行方を追うのは難しいわね…」
そう言ってふぅとため息をついた長女に、次女が、希望を捨てちゃだめよ!とすかさず畳みかける。
その言葉に、三人はいっせいに笑いをもらした。
「エメロって、脳天気よねー。希望、希望って、こんな状勢でも明るく言うんだもの」
末っ子の口真似をして笑いをとった次女の言葉に、そうそうと三女が相づちを打つ。
「騎士を取ることも、そろそろ考えてほしいんだけどね…ディアナ様も、あの子には期待をかけてらっしゃるし」
長女が、思案顔で首をかしげると、
「あの子は、自分の身は自分で守るって言い出しかねないしねぇ」
と次女も苦笑いをした。
「…さて、と。三人揃ったことだし、明日の朝一番に、ディアナ様にご報告に行くわよ。今日はもう寝ましょう」
という長女の言葉に、
「エメロに気づかれないよう、そっとベッドに行かなきゃね」
と次女は言って、肩をすくめた。
その言葉に、部屋に向かいかけていた長女は足を止めて、そうそう、と言い足した。
「もし、この都市に万が一のことがあったら、エメロードをよろしくとディアナ様に改めて頼むつもりよ」
それを聞いて、次女と三女の表情にも緊張が走る。
「…万が一、ね。そんなことがなければいいけれど」
「ええ。でも、いろんな事態を想定しておかなければ。…状勢は思った以上に悪いようだし」
「ま、とにかくエメロだけは守んないとね。まだ子供だし?」
そう言ってにやりと笑う次女に、
「あたしたちの、大事な大事な、妹だものね」
と三女も不敵な笑いを浮かべながら返す。
「ええ。守りましょう…私たちなりの、やり方で」
長女の言葉に、残りの二人も決意を秘めた表情でうなずいた。
キィィンと、三人の核が高らかに和音を奏でる。
ベッドの中で安らかな寝息を立てている末っ子は、自分が姉達の会話の肴にされていることも、そして姉達から深く愛されていることも、未だ知らずにいる。
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