出立の日

《逡巡》

 頬をさわさわと撫でる髪の感触に、ふいに現実に引き戻される。
 二階の窓から吹き込む風が、カーテンをふわりとふくらませている。
 本を読みかけたまま、自分の世界に入ってしまっていたようだ。
 窓枠からは、青空の欠片がのぞいている。本物じゃないみたいに、きれいな色。
 ふと、思う。私はなぜ、ここにいるのだろうか、と。
 なぜ、私はここに存在しているのだろう?
 私はどこから来たのだろう?

 自分のしていることに疑問を抱いたことは、何度もある。

 私の手は、血にまみれたままだ。
 どんなにこの手と身体を洗い流しても、記憶の中の鮮血は薄れることはない。
 血の香り。刀身にこびりついた血と脂をいつもの習性で拭いながら、(念入りに研がないと…)と思う。
 思考は、その時止まっている。
 骨を砕き、臓腑を抉った武器の歯こぼれを、心配している自分がいる。
 殺したことの意味が迫ってくるのは、いつも後からだった。
 考えている暇はない。迷ったら、死ぬだけだから。だから、いつも考えない。身体を動かし続ける。
 戦場において迷う者は、死ぬ定めにある。
 (…待って!)
 思考はいつも、事態に追いつかない。追いつけない。考える暇はない。畳みかけるように、時はひとときもたゆまずに、重い波のように私に襲いかかる。
 (私は、どうすればいいの…?)
 武器をかまえ、迫りくる人。人。人。
「死んでくれ!」と叫びながら切りかかってきた、白く気高い狼人。
「これは、お前が選んだ道だ。」聖騎士が、すらりと正眼に武器を構える。
「邪魔をするのなら、容赦はしないわよ?」美しいチャイナドレスの女性の目から、狂気がほとばしる。
 私に向けられた、明確な意志。殺気が私に容赦なくぶつけられ、私は何かを思うよりも先に得物を抜き放つ。
 その場を切り抜けるしかない。それだけが、生き残る道。
 そして、戦いが終わった後は、疲労よりも重い虚脱感が私を襲う。
 思考は止まっている。武器の血糊を拭い、己の身体を点検し、相手の戦意喪失と息の有無を確認し…。
 私はいつしか、思考を止めることを覚えた。
 戦場に身を置く限り、私は思考を止めていられた。
 その封印が解けてしまうのは、我が家に戻った時。
 野宿独特の緊張感もない我が家に戻り、かわいらしい双子たちのなんのてらいもない声を聞き、温かな飲み物の湯気が私の心をゆるゆると溶かし出す時、封印していたものまで、ついうっかり解け出してしまうのだ。
 人の生命を奪うこと。遊びではないのだ。強盗でも、ない。
 目先のこと…食べるためでも、お金のためでもない。
 彼らは、どうしても譲れないもののために武器を取り、己の大切なものを守りとおすために武器を振るう。
 その一撃は、限りなく重い。
 私に、それをはね返せるほどの、いったい何ほどのものがあるのだろうか?
 私は、死にたくないというシンプルで原始的な本能によって、かろうじてその一撃を防いでいるだけだ。
 …もっといえば、私を生かし続けているのは、なぜ襲われなければならないのか、自分の巻き込まれた事態の根っこは一体なんなのかという、“知りたい”という欲求なのかもしれない。
 さまざまな事件に巻き込まれ、そのたびに、自分の限界をいやというほど思い知らされ、それでも、私は何かを求めてふらふらと旅に出る。そして、性懲りもなく、また命のやり取りをする羽目になる。
 さまざまな人々のさまざまな苦しみに触れ、怒りに巻き込まれ、悲しみに共鳴し、そのたびに双子たちをさんざん心配させながらも、時には心が石の塊で塞がれたような重苦しさを覚えながらも、しばらく家でつれづれな日々を過ごした後は、またぞろ旅の虫がうずき出すのだ。
 いったい、なぜなのだろう。
 この手を何度、朱に染めたら終わるのだろう。
 …多分、それはほんのひとかけら。ほんのひとしずくの煌めきを求めて。

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