或るエピローグ

《例え話》

 それは、いつもと変わらないある夜のことだった。先日の嵐のような雨の跡もようやく乾ききり、月は明るい。
 「悪魔のぼったくり亭」は、今日も相変わらずにぎやかだった。
 そこへ、フラリと客が一人入ってきた。地味な旅装束に身を包んではいるが、それは彼女の美しさを少しも損なってはいなかった。曙の色した髪の下には、暗い輝きを宿す瞳があった。
 彼女はそのまま、フゥと奥のカウンターの方へ向かっていく。一瞬、その場の者達は彼女に釘付けになったが、すぐにまた、元のどんちゃん騒ぎへと戻っていった。
 彼女はするりとスツールに腰かけると、ポツリと言った。
「…なにか、酔えるものを…」
「…ハイ、わかりました」
 そう答えると、マスターは後ろの硝子戸から酒瓶を取り出した。琥珀色の液体が、グラスになみなみと注がれる。氷が、チリンとかすかな音をたてた。
「…どうぞ」
 差し出されたグラスに、彼女はなかなか口をつけようとはしなかった。その瞳は、グラスを見つめていながらグラスを見てはいなかった。
 喧騒が、遠のく。
「お酒を気持ちよく飲めるのは、幸せなことですね」
 そんなマスターの言葉に、ハッとしたように彼女は顔を上げた。
「…それはイヤミかしら?」
「いえ。あなたが美味しそうに飲むところをみたいだけですよ」
「………」
 沈黙が、おとずれる。
「…私のしてきたことは、なんだったのかしらね……」
「………」
「…そうね、こんな話はいかが? 昔々、ある村に病気が広まってしまいました。その病気は、最も清らかな血、幼子の血でしか癒せなかったのです!」
「……で?」
「村人達はどうしたか? もちろん、幼子の血を次々に、少しずつ搾り取っていきました。でも、幼子は文句を言いませんでした。その子は、心優しい子だったから……」
「………」
「日に日に、その子は痩せ細っていきました…。ある日、ついにたまりかねたある人がその子を連れて村から出ていってしまいました。村人達は、大慌てでした。なぜって、またその病気に罹った時にそれを癒せる清らかな血を持つ者はもう、その村にはいなかったから。誰も彼も、その血は既に汚れ切っていたの」
「………」
「幼子を連れ出した人はそんな村人達の醜さを憎み、彼らを一人また一人と殺していきました…。ところが、ある日その村に余所者がやってきました。その余所者は、病気に苦しむ村人達を見て心を寄せ、なんと自分の血を全て村人達に分け与えてしまったのです!」
「………」
「その余所者の体は冷たくなってゆき、そして大人である余所者の血で、なぜか村人達全員の血が一気に清められてしまったのです! 村人達は感謝し、そして自分達の血をその冷たい骸に、それぞれ少しずつ注ぎました…。そして、奇跡は起こりました……」
「………」
「幼子も元気になりました。そして、その子を連れ出した人は、その村を去りました…。おしまい」
「………」

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