彼女が笑う日

《青の果ての向こう側》

 ほんっと、バカ。エレって。
 バカみたい。
 バカよバカ。
 ……。

 むしゃくしゃしてきたから、尾ひれを思いっきり水面に打ちつけたら、変な花のおじさんがびくんっと飛び跳ねていた。
 ふん。ごつい顔のわりに根性ないんだから。そんなんだから、幽霊騒ぎなんかで真っ青になるのよ。
 バッカみたい。
 あたしの周りって、バカしかいないのかしら。
 あ〜あ、またひと泳ぎしてこようかしら。

 青い青い世界。どこまでもゆらゆらと続く世界。
 この尾ひれと水掻きを使えば、どこにでも行ける。
 ただし、この水の続くところまでだけど。
 陸の上では、あまり長いこといられない。
 こっそりみんなから離れて、初めて陸に上がった時、すごくどきどきした。
 陸に上がった悲劇の人魚姫の話は耳にタコができるほど聞かされてうんざりしたわよ、もう。
 泡になっちゃうから陸に行くのはよせって?
 じょーだん。
 自分が行きたくて陸に行って、自分がなりたくて人間になったなら、本望じゃない。
 あたしはむしろうらやましかった。
 人間に恋して、最後には泡になっちゃった伝説の姫が。
 どうせ生きるのなら、ああいう波乱万丈の人生を送ってみたいものよね。

 海はどこまでも青く透き通っていて、あまり深いところに行かなければあったかくて気持ちよくて、うとうとしながら浅瀬で揺られるのは最高に気持ちいい。
 天敵さえに気をつければ、多分天国みたいなところ。
 でも、思った。
 平和って、何?
 つまんないわ。何もない人生なんて。
 のほほんと漂って、みんなでおしゃべりして、で、一日がまた終わっていく。
 伝説に出てきた、尾ひれのない二本足の生き物ってどんなんだろう?
 そう思った瞬間から、このほけほけとした平和な世界はあたしには堪えがたいものになった。
 この、広い広い青い世界の外に、まだ想像もつかないような世界が広がっているなんて。
 自分が知らない世界があるってことに、なんでみんなは我慢できるのかしら?
 見たいとは思わないのかしら。信じられない。
 「人魚の肉」だの「人魚の涙」だのを狙う輩がいるってこともうんざりするほど聞かされたけど、危険があるからそこへ行く価値はないってことにはならないわよね。
 怖いからってだけで、すごいものを見損ねるのはバカげてるわ。
 みんな、バカ。
 女の子だってみんな、その伝説の姫の恋の話に、素敵とかいってぽーっとなってるくせに。
「でも、陸は危険だから…」で片付けるんじゃないわよ。
 あんまりむかついたから、よっぽどワカメでぐるぐる巻きにしてやろうかと思ったわ、ふん。
 話がわからないったらありゃしない。
 あ〜、またむしゃくしゃしてきた!

 乱暴に旋回すると、その辺の小魚達がざざっと逃げていく。
 海草がぐいんと揺れて、差し込む日差しも大きく揺らいだ。
 平和なこの水の中で暴れても、しょせんこんなもん。
 な〜んにも起こらない。
 体も無事。
 でも、陸は違う。
 水の無い所に長くいれば、たちまち体は乾いて死んでしまう。
 水辺から離れる時は水の膜をまとわなければいけないし、それだって、長続きはしない。
 初めて陸に上がった時は、正直言ってけっこう辛かった。
 でも、それでもとてもわくわくした。
 呼吸の感覚がよくつかめなくて、息を吸うたびにのどが干上がるような気がしたけど、
(今、あたしは外の世界にいるのよ!)
って興奮してたあの気持ちは、今も忘れられない。
 あの時たまたま上がったちっちゃな入り江は、しばらくの間あたしのお気に入りの場所になった。
 二本足の生き物がすぐに見れなかったのはちょっと不満だったけど、まずは陸に上がった時の状態に体を慣らさなくちゃいけなかったし、人気のないその入り江は、そういう意味では絶好の場所だった。

 こっそりその入り江に通うようになって、だんだん陸での呼吸とかにも慣れてきた頃。
 あたしは天使に出会った。

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