彼女が笑う日

《天使の歌声》

 その日も、あたしは尾ひれの先を水辺に垂らして、陸の上で空気に体をさらしていた。
 水の中とは違う、空気の動き。
 風って、気持ちいい。
 ぴちゃぴちゃ尾ひれで水面を叩きながら、のんびりしてたせいよね。
 すぐに気づかなかったのは。

 最初に気づいたのは、姿じゃなくて声だった。
 …声、といっていいのかわからない。
 水の中でいうなら、さしずめ波動?
 うまく言えないけど、なにかが響いてきた。
 本当なら警戒しなきゃいけなかったんだろうけど、すぅと耳に忍び込んできたそれはあんまり自然で、そして心地よかったから、あたしはぼんやりとそれを聴いていた。
 いつの間にか目を閉じてたみたいで、バサバサッという思いがけず身近な物音にびくっと震えて、目を覚ましていた。
 これはないしょだけど、あたしの人生でも一、二番を争うぐらい肝を冷やした出来事だわね。
 鳥のモンスターにでも引き裂かれるのかと思ったわよ。
 でも、違った。
「……あの」
 水の中へ逃げ込もうとしてた時に声が聞こえた。幻聴かと思ったわ。
 だって、陸で聞いた初めての言葉だったから。
 声のする方を仰いだ時、

 まぶしい日差しに照らされた美しい天使がいた。
 豊かに咲きほころぶ花の翼を羽ばたかせながら。

 一瞬、おとぎの世界に入ってしまったのかと思った。
 現実のものには見えなかったのよ。
 二本足の生き物を見れるかと期待していたら、天使が現れるなんて!
 でも、なんで天使がこんなところに?
 あたしが混乱していると、その天使はやけにおずおずとしゃべり出した。
「ご、ごめんなさい…。驚かすつもりじゃなかったんだけど…」
 ……天使はこんな風におどおどしないわよね。
 ひょっとして、あたしって、バカ?
 最初はモンスターかとびびって、そうじゃなくて天使だったと思って感動したら、ただの人間?
 そう思うと、猛然と腹が立ってきて、あたしは思いっきりとんがった声で言い返していた。
「心臓が止まるかと思ったわよ! あんた、一体何者なのよ?」
 すると、その天使もどきはあたしの声音にびくんとして、
「ごめんなさい、ごめんなさい」
とぺこぺこ頭を下げ始めた。
 その卑屈な態度にますます頭に来て、気づいたら
「あ〜っ、うっとおしいわよ! いい加減にしてよ!」
と怒鳴っていた。
「あ、はい…」
と、しゅんとうなだれたその天使もどきは、まるで背中の花までしぼんでしまったように見えた。
 なんで。
 なんでなのよ?
 そんなにきれいなのに?
 そんなに透き通った歌声なのに?
 なんだってそんなにおどおどしているのかしら。信じられない。
 あたしなら、思いっきり歌うわ。
 思いっきりその背中の花を咲かせてみせる。
 そして、空を自由に飛んでみるのに。海の碧とは違う、空の蒼の世界を。
 あたしには届かない、あの青空。
 あんなにいろんなものを持っているのに、なんであたしなんかに頭を下げているの? この人は。
 いろんな考えがぐるぐる頭の中でうずまいて、あたしは叫び出したいような、なんだか笑い出したいような、泣きたいような、とても変な気分になった。
 唇がなんだかぷるぷる震えるのを一生懸命こらえていたら、
「…じゃあ、私、出ていきますね…。ごめんなさい…」
と言いながら、あの天使もどきはくるりと反対の方を向いて、今にも去っていきそうな様子を見せた。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
 気づいたら、呼び止めていた。去られたくなかったから。
 …なんで去られたくなかったのかしら?
 わからない。
 …だって、このままじゃ気持ち悪かったから。なんだか収まりがつかないじゃない?
「はっ、はいっ」
と慌てて天使もどきがふり返った時、なんだかほっとした。
 ほっとしたことにまた頭に来ながらも、何か言わなきゃと頭の中がぐるぐる回ったけれど、口をついて出たのは我ながらつまらない言葉だった。
「名前ぐらい、名のりなさいよね!」
「あ、はい…私、エレといいます」
「ふ〜ん、エレ、ね。私はフラメシュ。マーメイドよ。…そういえば、あなた何族なの?」
「私は、鳥乙女(セイレーン)です。本当に、驚かせてごめんなさい…」
 また、あたしのこめかみがひくひくっとなった。
「…あんた、これ以上うっとおしいこと言ったらはり倒すわよ?」
「あっ、はいっ! ごめんなさい」
と、またぺこぺこ頭を下げ始めた。
 …この人は一生、このまんまかもね。もう、いちいち気にするのはやめよう。こっちが疲れちゃうわ。
 あたしはため息をつきながらも、頭の中に残っていた疑問を口に出した。
「あたし、鳥乙女って話にしか聞いたことがないけど、花の翼なのね? 知らなかったわ」
 そう言うと、エレは顔をすこしほころばせて、
「ええ、そうなんです。歌うことで背中の花を咲かせるんです」
と答えた。
 …この人って、笑うとかわいいのね。しぼんでいてもきれいだったけど。
「歌が好きなの?」
と尋ねると、
「ええ」
と今度は大輪の花がほころぶような笑顔を見せた。
 …なんだかいい笑顔だわね。この人はこうでなきゃ。おどおどしているなんて人生の無駄よ。
「ねえ、あんたの歌をもう一度聴かせてよ」
というと、エレは一瞬びっくりしたような顔をしたけれど、こくりとうなずいてから深呼吸をした。
 そして、エレがわずかに背中をそらした時、

 世界は一瞬にしてさぁっ…と塗り替えられた。

 大気が、さざ波が、砂の一粒一粒までもが、圧倒的なぬくもりで満たされ、
 おおきく揺らぎ、かすかに震え、
 いつしか虚空に魂がさまよい出して、体をどこかに置き忘れてしまっていた。

 あたしは岩に腰かけていたのだけど、まるで空をふわふわ飛んでいるような気分だった。
 …この人、すごい。
 心の底からそう思った。嫉妬とかそんなもの、とっくにどこか空の彼方にすっ飛んでいた。
「…すごいわ。エレ、あんたの歌声は宝物よ」
 そうぽつりと洩らすと、歌姫は照れたような、けれど極上の笑みを見せた。

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