それぞれの輝き
《終末》
「…よ、英雄になれ」
それが遺言だった。私の手が届く前に、その体はくずおれた。
いや! いやだ!
これ以上は、もう。
猫の僧兵は、私が優柔不断だったばかりにその命を落とした。
彼女の絶命の一因を作っておきながら、涙が止まらなかった。
私の腕の中で、彼女はただの柔らかい毛並みの塊となっていった。
ぐにゃりとたれる腕。
がくりと垂れている首はもはや動かず、かすかに開いたその口は完全に停止していた。
もう、呼吸もしない。何も言葉を紡がない。何も思考しない。
私の方が毀れてしまいたかった。
きつくきつくその脱け殻を胸に抱きしめて泣く外に、何ができただろう。
「行くぞ」
という声が、ひどく遠くから響いてくるようだった。
のろのろと顔をあげると、わずかに侮蔑の色をにじませたあの頑なな顔があった。
私が彼をぼんやり見上げていると、
「そいつは悪魔に加担した。今倒しておかねば災いになっただろう」
と言い放ち、くるりと踵を返した。
そのまま、塔の頂上へとどんどん進んでいく。
腕の中でどんどん冷たく、固くなっていく亡骸に一言謝り、その見開かれた瞳をそっと閉じさせた。
ごめん。ごめんなさい。
骸は何も答えてくれはしなかった。
今また、私の腕の中でどんどん冷たくなっていく亡骸が一つ。
また、間に合わなかった。救えなかった。止められなかった。
その胸板の傷をみれば、助からないことは明らかだった。
かっと見開かれた瞳。その頭は力なく垂れている。
彼女の死に様と重なっていって、気づいた時は思わず叫んでいた。
「いや! こんなの、いやよ!
なんでよ!!」
ばっと頭を振り上げると、私を静かに見下ろしている赤毛の悪魔がいた。
なぜか、殺意は感じられなかった。どこまでも透明な、そのまなざし。
あの猫の僧兵でさえ、聖騎士にヌンチャクをふりかざした時は闘気で満ち満ちていたというのに。
腕の中の彼に傷を付けたのは本当にこの悪魔なのだろうか。ふとそんな疑問が胸をかすめる。
「この世界を我が物にし、蝕む人間たち。俺はそんな醜い人間を滅ぼすために生まれた」
唐突に悪魔は語り出した。
「滅びゆくのが、人間の定め」
そう言うと、つと空を仰いだ。
哀しい色した空に、赤毛がゆらめいた。赤い。何もかも。私の腕の中の聖騎士の体も。
「…だからって、幼なじみまで殺してしまうの!?」
私の詰問にも無表情なまま、彼はこちらを見つめている。
悲しかった。何もかも。
次々に殺し合い、倒れていく幼なじみたち。
「これ以上は、やめて! こんな悲しいことしないで…!」
止めたかった。既に手遅れだったけれど、これ以上の悲しみは積み重ねたくなかった。
そして、言葉では止められないこともわかっていたから、私は武器を手に握った。
腕の中の聖騎士の瞳をそっと閉じさせる。猫の僧兵の瞳を閉じさせたのはつい最近のことなのに、はるか昔のことのように感じられた。
悪魔と司祭に幸せになってほしかった僧兵。
世界に仇なす悪魔を倒そうとした聖騎士。
彼らの思いは空回りして、空しく散っていった。
そして今、悪魔の望みを私が砕こう。
悲しみの輪廻を断ち切れるものなら、私はこの手を罪の色に染めてもかまわない。
この悪魔が世界を滅ぼしたなら、この世の悲しみは夜空の星ほどにも増えてしまうかもしれない。
我が家で私を待っているであろう双子の面影が、ふと脳裏をかすめた。
『英雄になれ』
…無理よ、私には。
腕の中の動かない彼につぶやく。
私にできるのは、せいぜい悲しみをこれ以上増やさないようにすることだけ。
私の胸が悲しみで引き裂かれる前に、全てに終止符を打ってしまうことだけ。
頑なな彼は、鋼のように何もかも弾き返すようで、そのくせどこか危うげだったと今、ふと思う。
己を曲げず、己の信じたものしか認めなかったあの態度は、剛直というよりも、己の大事ながらくたを必死に守る子供のような哀しさがあった。
腕の中でどんどん血の気を失っていく彼の頬にぽたりと何かが落ちた。私の涙だった。
水滴はつぅと彼の頬を滑り落ちて、消えた。
ぐいと自分の頬を腕でおしのごい、彼を静かに腕から下ろして立ち上がる。
「…私は、私の大切な人達の笑顔を絶やそうとするものとは戦う」
そう、悪魔に宣言する。彼の目を見据えて。
ふ、とかすかに笑ったように見えた。
その笑みのようなものを見直す暇もなく、唐突に彼の体がせり上がり出す。
闘気もふくれ上がり、ぶわっと風が巻き上がる。
来る。
武器をしっかりとかまえ、全身の感覚を研ぎすます。
泣いていたことなどもう忘れて、私は戦いに身を投じる。
彼の右腕の動きがわずかにぎこちなかった。それが結果として勝因となった。
苦悶の咆哮の中、そのふくれ上がった体が重たげに崩れ落ち、端からさらさらと風に散っていく。
思わず彼に駆け寄ってしまった。
私が殺した。幼なじみだった彼らの一人が、また逝く。
胸の内がこわばったように張りつめ、何も言うことができなかった。
苦悶の表情を浮かべながらも私の方をかすかに見上げた悪魔の表情は、悪意の欠片もなかった。
首をかしげて大人を見上げる子供のような無心さを浮かべたその顔に、私は愕然とする。
憎まれた方がましだ。
思わず両手で顔を覆う。でも、涙は出なかった。
代わりに、胸が岩にでもなったかのように固く、固くなっていった。
ふいに、ぐらりと足元が大きく揺らいで、私はぎょっとする。
ワームがぎしぎしときしんでいる。
崩れ落ちる…?
背筋が薄ら寒くなった瞬間、風を切る音と共に、鮮やかな色彩が目の前に舞い降りてきた。
カンクン鳥だった。その背には、あの小柄な賢人がちょこんと座っている。
「さあ、早く!」
という声に急かされ、慌てて鳥の背に飛び乗った後で、聖騎士と悪魔のことを思い出して急いでふり返った。
けれど、既にカンクン鳥は空へと羽ばたき出していた。
どんどん風に散らされて消えていく悪魔の体も、悲願半ばにして逝ってしまった聖騎士の冷たい骸も、すぐに視界から消えてしまった。
そして、ワームの全体が見渡せる程に遠ざかった頃に、その脱け殻はガラガラと端から崩れ落ちていった。
悪魔の夢の脱け殻。聖騎士の悲願のついえた跡地。
全てが消えてゆく。全てが悲しかった。
遠い昔に無邪気に微笑み合ったであろう彼らの、その永遠の光景が、時の狭間に埋もれてゆく。
彼らのことを知るものがどれほどいるのだろうか。
かつて仲がよかったこの四人組のこの結末は、幼なじみの出来事としては歴史に刻まれないのだろう。
ひっそりと歴史の塵の中に埋もれることを考えるだけで私は胸苦しくなり、カンクン鳥の首筋に顔を埋めた。
優しい羽毛の肌触りが、凍っていた涙を誘い出した。
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