それぞれの輝き

《四人目》

 見たことのある景色だ、とぼんやり思っている間にもカンクン鳥はどんどん下降し、そしてとある先端に舞い降りた。
 とがった岩だらけの周囲を見回して思い出す。そうだ、ここはガト。
 カンクン鳥は自分の巣に戻っただけなのだ。でも、よりによってこの因縁の地に戻ってきたことが何か運命の皮肉のように思われて仕方がなかった。
 ふと思い出して周囲を見回すが、あの小柄な賢人の姿はもう見当たらなかった。
 お礼も言えなかった…そう思いながらのろのろとカンクン鳥の背をすべり降り、そして眼下に広がる雄大な景色をぼんやりと眺めていた。
 この世界を救ったのか、と思ったが、そんな実感はなかった。人々の笑顔を守れたという充実感もなく、ただ私の胸の中を空しい風が吹き抜けていく。

 どのくらいぼんやりしていたのだろう、ふいに後ろから聞こえる足音に我に返った。
「…さま、戻られたのですね!」
 修道女だった。カンクン鳥が戻ってきたのを見てここに来たのだろう。
「悪魔を倒されたのですね」
 そう言って彼女は空を仰ぐ。
 あの赤い空はもう、突き抜けるような蒼に染め変えられていた。
 悪魔を倒したからといって、私の心もこの空のように晴れるわけでもないのに。
 今は空の青さが恨めしかった。
「そうそう、実は悲しいお知らせもしなければならないのです…」
 まだ何かあるのだろうか。悲しみはもう打ち切ったと思ったのに。
「マチルダ様が、逝去なさいました…」
 その瞬間、私の中を何かが突き抜けていった。
 彼女の命のともしびが消えかかっていたのは知っていたはずなのに、愕然とする。
 四人目だ。最後の一人が、逝ってしまった。
「そのご遺体はなぜか、空中に溶けて消えてしまわれました…不思議なことです」
 修道女がそう言って目を伏せる。
 私の中から限りなく何かが抜けていくと同時に、一種の安堵感もあった。
 少なくとも、彼女は聖騎士や悪魔の死は知らないままに逝ったはずだ。
 取り残された最後の一人になっていたことは気づいてないはずだ。
 そう考えた時に、何かが急に私の心臓をわしづかみにした。

 違う。
 知られたくなかったのは、聖騎士と悪魔の死ではなく、私がそれに関わり、彼らの死に手を貸したこと。
 司祭の愛する悪魔に手を下したことを彼女が知らずに済んだことに胸をなで下ろしたのだ。

 そのことに気づいた瞬間、たまらなくいたたまれなくなった。
 あまりに自分がさもしくて、情けなくて涙が出た。
 思わず顔を背けた私を見て、修道女は私が司祭の死に涙をこぼしたのだと勘違いしたらしい。
 違う。違うの。
 首を横にふったが、それも優しい誤解を受けたようだ。
 私が司祭の死を『信じられない』と否定していると思ったらしく、修道女は、ご遺体はそういうわけでないけれども葬儀は行なわれるのだ、ということを説明した。
 そんなもの、もう私にはなんの意味もない。カンクン鳥の背の上でワームが崩れるのを見ていた時に、既に私の中のあの幸せな四人は死に絶えていたのだから。
「ごめんなさい、一人にして…」
 そういうのがやっとだった。
 訳知り顔にうなずく修道女の前から逃げ出し、断崖をふらふらと下っていった。
 どう歩いていたのかも記憶にない。頬に当たった飛沫に、ふと我に返る。
 いつの間にか滝つぼのところにたどり着いていた。
 聖騎士が妖精を睨みつけていた場所だ。
 それももう、遠い思い出になってしまった。
 ぼんやりと滝を見上げると、何かがいた。
 一瞬、妖精かと思ったが、違うようだ。滝へとはり出した木の枝に、誰かが腰かけている。
 なんだか見覚えのあるような気がして、誰だろうと記憶をさぐっていると、ふいにその人が舞い降りて来た。
 ばさりとひらめくマントの縁は黒い羽で縁取られている。
 漆黒の鳥の姿を人に変えてたたずむのは、詩人を自称するユーモラスなあの賢人だった。
「ポキール…」
 賢人は、やあというようなそぶりで、指先で帽子のつばに触れた。
 相変わらず、その頭上で雛達がかしましくさえずっている。
 思えば、十年前の鉱山の光景へと私を導いたのもこの人だった。
 あの幼なじみ達の、知られざる物語。
「…みんな、死んでしまったわ」
 そうつぶやいた瞬間、張りつめていた何かがぷつんと切れた。
 思うよりも先に涙が頬を伝って、とめどなく落ちていった。
 ぼろぼろと泣いている私に、ふいに彼の言葉が降ってきた。
「君は、恥じる必要はない」
 思わず、体全体がぎくんとこわばってしまった。
 恐怖に包まれる。命のやりとりをした時でさえ感じたことのない恐怖。
 この人はどこまで私をむき出しにしてしまうのだろうか。
「…だって! ダナエを見殺しにしたわ! エスカデを助けられなかった…アーウィンを殺した。
 そして、マチルダが死んだことよりも自分の罪が彼女にばれなかったことの方が大事なのよ、私は」
 私のとげとげしい言葉を受けても、彼は変わらずにふわりとたたずんでいる。
「では、僕が君の前に現われた時になぜ君は泣いたんだい?」
 唐突な質問に一瞬とまどう。なんで泣いたのだろう。
 …四人のことを思い出したからだ。本当なら、今も一緒に微笑みあっていたかもしれない彼ら。
「…あの四人を覚えている人がいなくなってしまうからよ」
 いがみ合い、すれ違っていた四人しか人々の記憶に残らないなんてあんまりだ。どんな気持ちで彼らがお互いを殺し合っていたのか、また想い合っていたのか、私ごときにはわからない。
 だけど、昔微笑み合った相手に刃を向け合うことになった当人達がいちばん悲しいはずなのだ。
 悩み続けていたダナエも、頑なだったエスカデも、無表情だったアーウィンも、ただ微笑んでいたマチルダも。
 彼らは歴史を動かすために行動していたのではない。自分達の個人的な思いで動いていただけなのだ。
 だけど、歴史は彼らの微笑みも涙も刻みはしないだろう。仲違いしていたその事実だけが残されてしまった。
「ポキール、彼らの事を覚えている人がいなくなってしまったわ。四人とも死んでしまったもの」
 言葉を絞り出したら、また涙があふれてきた。
 ふいに、頬をふわりと包まれた。驚いて顔を上げる。ポキールの手の羽毛からぬくもりが伝わってきた。
「大丈夫。彼らは君の中に生きているよ」
 私の中に…?

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