蝶・きままWJ感想

■24号-デスノ最終話 05/15 (月)
DEATH NOTE page.108:完
5/18:1巻を見返して思ったことを末尾に追記。

5/19:更に、末尾に感想を追記。

冒頭の1コマ目の右側に見えるシルエットは、リュークかな?

「なんだよ、うちのジジィー迎えに来てねーじゃん」
この眼鏡の男はもしかして、連載当初、月が『この世界は死んでもいい奴ばかりだ』などと厭世観を醸し出していた時に、迎えにきてない母親を罵っていたいじめられっ子だろうか?
だとしたら、ある意味感慨深い。月が──キラが死んでも、世の中は変わらず回り続けている。

見知らぬじいさんが「ワタリです」と名のっているコマは一瞬、心臓がとびはねたが、新たなる『ワタリ』なのか…。そして、『L』の名前も襲名された、と。
初代が死んでもなお、その名前と志を継ぐ者がいることは喜ばしいことだが、同時に、せつない。名前は同じでも、あのワタリはもう、いない。

ニアが、板チョコをかじっていますよ!
たったこれだけのことだが、メロが忍ばれている気がして、なんだか嬉しいです。とってつけたような描写に見えてしまいそうな箇所だが、しんみりしました。

ニアが魅上をノートで殺したと勘ぐる松田。この説にはニアの性格を鑑みると賛同しかねるが、新説の方の「もしかしたら、ニア(あいつ)は、魅上が持ち歩いていた偽のノートに細工した時、既に、偽と考えていたんじゃないか」という方は、私も本編の種明かし前に同じ事を考えていたのでちょっとドッキリしました。最も、ニアの倫理観念や考え方を把握していない以上、彼の勘ぐりは的外れでありますが。

ニアが、リュークに最後の二つは嘘ルールだと教えてもらった途端に間髪入れずに二冊とも燃やした、という行動は、とても嬉しい。
厳重に保管・管理するという道もあっただろうが、それは選ばなかった。
松田の「普通、怖くて燃やせないっすよ」という言葉は最もだが、ニアの場合、デスノートや死神などといった常識を超えた存在に対する畏怖も常人に比べて薄かったから、さっさと踏み切れたのだろう。
そしてまた、デスノートがこの世に存在する限り、どんなに厳重に管理していても月や魅上のような人間がたまさかに使ってしまう可能性もゼロとは言い切れないとわかっていたから、すばやく燃やした。
月を殺さずに寿命を迎えるまで牢獄に入れるだけにとどめようとしたことといい、デスノートをすぐさま燃やしたことといい、ニアの倫理観念や危機意識は個人的に共感しやすいものだったので、月が裁かれなかったことも含めてニアの決断はすんなり受け入れることができました。
キャラとしてはLがいちばん好きだが、私がその行動原理や信念においていちばん共感を覚えるのはニアだと思います。

それにしても、松田がなんでそんなにニアを悪い方へ勘ぐるんだろうといぶかっていたら、伊出の「おまえ、月くんを好きだったろう?」という一言で疑問が氷解しました。
月をキラだと疑うことが他の面子よりもなかった分、仲間として月への感情移入もそれだけ大きかったのだろう。
そんなに月に思い入れがあるなら、それこそ粧裕とゴールインするといいですよ、松田。
そういえば、夜神家の母と娘は結局出てきませんでしたが、彼らに総一郎と月の死はどのように伝えられ、また、どのようにして受け止められたのかがとても気になります。その辺もできれば描写してほしかった。

伊出が「史上最悪・最強の殺人兵器だ」と言った時の背景に浮かんでいた、夜空の月。
警察チームの描写が終った後、その月が再びクローズアップされ、そして夜の山の峰に連なる明かりが次第にクローズアップされてゆく。
行列の人々の顔が見開きで表れた時、ぞわぞわしました。
大量殺人者・キラの信者たち。けれど、彼らはおそらく、暴力的でも排他的でもなく、ただ、ひっそりと平和な世界を望んでいるだけの群衆。逆説的だが、だからこそその姿に恐怖を覚えます。
世界を掌握することに酔いしれ、最期には醜い死に様をさらして逝った月の実態などおかまいなしに、『キラ』は神格化されてゆき、こうして一部の無垢で善良な人々の心を捕らえて離さない。
ここに、「夜神月(ライト)」という名前の字面がそれぞれ、夜空・新世界の神・月(・ろうそくの明かり)という形でずらりと揃いました。
この世界では、キラもいずれ、キリストのように語り継がれ、どんどんと神格化されてゆくのでしょう。
ただし、こうしたひっそりと生きる一部の善良な人々の希望を摘まなかったという点では、キラ捕獲について公表しないというニアの方針はやはり評価できると思います。非常に複雑な気分ですが。
前回のラストの「人間はいつか死ぬ。死んだ後にいくところは、無である。」というナレーションと相まって、無常感が煽られるラストでした。

■弥海砂
夜神家の母と娘も気になるが、それ以上に気になるのが、ミサの行方。
最初、話のラストで祈りを捧げている少女がミサかと思ったが、彼女はキラ崇拝者であっても、このように静々と祈りを捧げるタイプの人間ではないし、行列の面子が外国人っぽいので、その可能性は薄いだろう。
キラとしての記憶を失っており、さらに地上に存在するデスノート二冊が燃やされた時点で、彼女はニアの方針からいって拘束されずに放置されている可能性が高い。(最も、監視は密かにされているかもしれないが。)
月にいいように利用されてもめげたり疑心暗鬼になることなくあくまで前向きな思考のままだった彼女なら、月の死を知らされ、キラがぷっつりとその裁きを止めてしまった後もなお、この世界のどこかでたくましく生き延びていることだろう。両親の惨殺という修羅場を乗り越えた彼女だからこそ、そう思える。
個人的には彼女のした宇生田殺しなどはゆるせないが、命を懸けてキラと対決して打ち勝ったニアが放置という決定を下したならば、それでかまわないと思っている。
できれば、テレビやポスターの一場面でもよいから、彼女が芸能人として活躍しているシーンをかいま見せてほしかった。

■L
さて、Lの死については、結局第一部で夜神総一郎が報告した事実だけで、その後、密葬されたということは会話に出て来たものの、彼が死んだことに関する揺るぎない事実描写は出てきませんでした。
その死の事実がぼかされているだけでなく、本名すらも作中に結局出てこなかったという点では、ある意味、今回のラストでキラが神格化されつつあるように、Lも物語上で特別な存在へと昇華しています。
そういう意味では、月とLはどこまでも対になっています。

そして、今回の完結に至るまで生身のLが再び登場しなかったということは、ストレートに考えて死亡しているということなのでしょう。
けれど、Lとメロの志を引き継いだニアが、見事キラ──月に王手をかけ、勝利しました。そしてその後も『L』という名を襲名して仕事をしているこの事実に、Lの意志は生きているのだと私は思っています。(悔しまぎれではなく、素直にそう思っています。)

最後に、Lという魅力的なキャラクターを作り出し、話に熱中させてくれた大場先生と小畑先生に、感謝とねぎらいの言葉を贈りたいと思います。
ありがとう。そしてお疲れさまでした!

5/18:追記
最終話は、同盟閉鎖の関係もあったため、読んでからすぐさま感想を書いてそのままUPしてしまったが、後で1巻を掘り出して読んでみたら、ちょっと思うところが出てきたので、徒然に追記。
今回は、少年漫画を読んだ感想としてではなく、ひとつの物語という枠組みとしての解釈です。

ゼロ地点への回帰
この物語の作者は、冒頭の1話とラスト2話の締めくくり方を見るに、物語中で展開されたあの濃密なドラマを全て、『長い人の世において、一滴の雫によって水面に生じた波紋の如き、瞬く間のわずかな変化に過ぎない』とわざと放り出してみせている。『一人の死神の気まぐれのせいで、デスノートが地上に落とされていろいろありましたが、結局のところ、世間はほとんど変わりませんでした』というわけである。ゲームで例えるなら、リセットされて初期に戻った、という状態であろうか。この突き放し方は、方丈記の冒頭に描写されている無常観に相通じるものがある。
奇しくも、最終話の108という話数も、この無常観と、いつの世も変わらぬ人間の営みの象徴として一つのキーとなっている。

もう少し具体的に詰めてみる。
この物語は「この死神が人間界に落とした一冊のノートから、二人の選ばれし者の壮絶な戦いが始まる」というナレーションで幕を開けたが、その肝心の二人──月とLは両者とも死んでしまい、その戦いの内実もキラやLの正体も、世間に公表されないまま歴史の闇に埋もれていきつつある。
そして、月が死んでも、女子達は変わらず「飲みに行こう」と姦しく、眼鏡の男は迎えに来ない家族を罵り、暴走族らはバイクをふかしながら野方図に走り回っている。月がキラへと変貌を遂げる前の世界のままなのだ。ゼロ地点に戻っただけである。
月だけではない。『L』という存在も、その正体が結局知れないままに役割だけが月・ニアへとどんどんバトンタッチされてゆき、全ての決着がついた後も、表向きはキラ登場前と同じく、『L』と『ワタリ』が存続しているという体裁を保っている。
細部を取っ払ってその構図を俯瞰してみれば、キラが現れる前の世界に戻っただけなのである。

また、キラが死に、『L』がふさわしい者によって襲名されたことにより、一見、L側が勝利したという形で決着がつけられたように見えるが、実際には、上記のように人間界は物語が始まる前とほとんど変わっていない。
そして、L派の勝利ですら、最終話で松田が示した疑惑によって『完璧でまともなものではなかったかもしれない』という疑念を提示することで、L側が100%きれいに勝利したわけではないかもしれない、とその勝敗を曖昧にしてゆき、とどめに、月の死後も脈々と息づいているキラ信者の存在を示すことで、月が100%負けたわけでもないという形にして、「二人の選ばれし者」の戦いと決着の全てを、茫洋とした闇の奥へと紛れさせてゆくのである。

「人間はいつか死ぬ。死んだ後にいくところは、無である。」という衝撃の種明かしに続いて、上記のようなゼロ地点への立ち返りを描くことで、『勝負は終って二人とも消えた、世間と人々は何も変わらない、そして死後も何も無い』という、ゼロへの収束を以て物語は締めくくられる。
少年漫画ならば、勝負の明確な決着や世界のわかりやすい行方などが話の結びに求められるであろうが、『いろいろあったけれど、結局何も変わりませんでした、おしまい』という形で、間に挟まれたあの濃密な展開を全てあっさりと放り出してみせることで、ある意味、少年誌にあるまじきスタイルを最初から最後まで貫いたともいえる。
掲載誌が掲載誌だけに、反感や批判も多いだろうし、私自身も、その物語の枠組みも含めて少年誌に載せるべき漫画じゃなかったと思っているが、スタイルを変えなかったその反骨精神はある意味小気味よいし、物語としては面白い形で終ったと思っている。
この漫画に対する単なる感想としてはいろいろ不満も指摘したい落ち度もあるが、このゼロ地点への回帰という枠組み作りは、後付けで作られたものとはいえ、なかなか面白かったです。

5/19:追記
さて、今回の追記は、上記の解釈をふまえた上での感想です。単なる感想ですので主観的です。

大場先生の構築した物語の枠組みを理解してそれを書き飛ばした後で、伏線の未回収自体もうまいこと処理されてしまった、と気づいた。
『ちょっとゴタゴタしましたが、結局は元通りになっちゃいました。今までのドラマはぶっちゃけ、たいした意味はありませんよ。正義とか悪とか、そうした定義やその優劣にもそもそも意味はありません。善にも悪にも天秤を振り切らない、群衆。それが人間なのです。』
このようにポーンと物語の意味(あるいは主題)自体を放り出してしまうことで、結果、ミサも夜神家の母娘のその後の描写も一緒に放り出されてしまう。
そして更には、ぼかされたLの死や発見されていないナオミの遺体といった伏線までも、同様に放り出されてしまったのである。
つまり、『伏線を回収できませんでした』ではなく、『伏線は回収しませんでした』という体裁を取ったのである。
これはずるい。ずるいぞ。話の裾野が広がり過ぎてしまった物語の収め方としては巧いし、最後の最後まで読者を翻弄するその手腕には脱帽するが、私はLの伏線回収をずっと待ち望んでいたんだ! 『伏線回収なんてしませんよー』とアカンベーをされた気分である。
物語の意味を放り出すということは、なんらかの決着を求めて今まで一生懸命に読んできたL派・キラ(月)派、そしてその中間の立場にいた者も含めて、読者全員を敵に回すということでもある。そのやり口に、L派の一人である私はムキーと歯ぎしりしたくなるが、同時に、その剛胆さに、目を瞠りもした。

だがしかし、物語の意味を作者自らが放り出したということは、逆にいえば、その放り出された部分の解釈は読者が好きに料理していいということでもある。いったん放り出し、そして物語が完結してしまった以上、作者といえどもそこに後から意義付けはできない。
きっと、今頃ネット上では、デスノの最終回に関して喧々囂々と意見がひしめいていることだろう。最終回に関するファンレターもいっぱい届くだろう。大場先生は、読者が翻弄されるその様をほくそ笑みながら眺めているに違いない。そして、物語における解釈や意味に関する全ての問いかけには一切沈黙を守ることだろう。わざと放り出した以上、今更定義づける発言は慎むのが作法だ。どんなに竹刀でしばかれても己の正体を明かさずとぼけ通したクナイのように、『ハウルの動く城』についてわざと沈黙を守り続けた宮崎監督のように、大場先生はデスノに関して沈黙を守り通すと思う。(当たりさわりのない質問になら答えるかもしれないが。)

さて、原作尊重主義者としてはLの死に関する伏線回収がなされなかったことは非常に残念だが、作者が物語の意味を放棄した以上、それを補完するのも読者の自由である。
Lは死んでいないと夢見るのも、自由だ。Lの生死についてなんらかの鍵を握っていたと思われる夜神総一郎も死んでしまった今、Lの死亡に関する真実を伝えられる者もいなくなったわけで、Lが実はどこかで生きながらえていると夢想するのも、自由だ。可能性は無限にある。
同様に、キラ派の者が『この物語では、最後の無垢な少女に象徴されるように月が新世界を密やかに実現させていたのだ、すなわち月の勝利』と解釈するのも自由。
正義や善悪の意味について、各自が自分の納得のいくようにこじつけて解釈するのも自由。
私は、読者に想像の余地を残してくれる物語が好きだが(行間を読んで脳内補完する作業はアドレナリン放出しまくりである)、余地どころか全部うっちゃってしまったこの物語にはびびった。自由度が高すぎて、逆に脳内補完する気があまり起こらないが、少年漫画でこのような枠組みの解釈の愉しみを味わわせてもらえるとは思っていなかったので、そういう意味でもこの漫画に出会えてよかったと思う。

さて、今週でデスノは終りました。
改めて、ありがとう。そしてさようなら。

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