蝶・きままWJ感想
百哉兄さんのルキアへの妹愛(シスコンといった変態チックなものではなく、真摯な家族愛としてのそれ)と同様に、この親子の間にも、深く強い親子愛が、おそらくは横たわっている。けれど、それはもはやねじれてしまっている。 祖父と父と息子の三代の間でもつれてしまった、愛情という名の糸。 石田宗弦は、孫の雨竜にとっては善き祖父であったが、息子である竜玄とは確執があった。 宗弦が竜玄にクインシーとしての過酷な修行を積ませたことは、竜玄が現在、クインシーの正式な継承者であり、高い能力を保持していることからしても明らかである。ただし、問題だったのは過酷な修行自体ではなく、父親である前に師匠として竜玄に接し続けたことだと思われる。 父親からの愛情を受けられなかった(感じられなかった)こと、そして、死神と対立した結果、絶滅に瀕しているクインシーの絶望的な現状。竜玄が、クインシーであることを厭う原因は、おそらくここにある。 ホロウ退治そのものが嫌なのではない。滅びゆく技を守ることに対する懐疑、そして父としての温かさも持たず、そんな絶望的な立場になることをなぜか駆り立てる父への反発。 彼は、ホロウを滅ぼすクインシーとして働くことを拒み、命を救う医者になる。 宗弦が気づいた時は、もう遅かった。親子の愛情を通わせる機会は、逸してしまっていた。 そして、宗弦が雨竜にとって師匠である以上に善き祖父であったのは、息子へ父としてぬくもりを味わわせてやれなかった悔恨の情も大きいだろうが、それ以上に、雨竜にクインシーの才能があまりなかったからである。 この皮肉な状況を知ることなく、雨竜はただ祖父を敬愛し、そしてクインシーであることを拒む父に疑問と反発を覚える。 竜玄は、雨竜に才能がなかったため、たとえ宗弦に鍛えられてクインシーになったとしてもホロウと戦うレベルには至らないと高をくくっていたのだろう。 けれど、予想外に力をつけ、そしてあまつさえ宿敵である死神と手を組んで、ソウルソサエティへと旅立って生還した息子に、竜玄は、息子の力とクインシーの未来にひとすじの可能性を見いだし、彼の決心を認めることにした。 だから、クインシーとしての力を取り戻すチャンスを与えた。 けれど、それは同時に、親子としての絆や情を排し、師弟としての苛烈な関係に転じることを意味する。親子の情は、クインシーの修行には邪魔なだけである。 だからこそ、最後の場面で自分に対して手加減した息子に竜玄は「反吐が出る」とその半端さを罵る。甘さや情は、戦の現場では命取りとなるからだ。本気でクインシーを目指すのならば、そうした情は捨てなければならない。 だが、「…今日のところは見逃してやる」と、竜玄は今回の雨竜の甘さをゆるした。おそらくは、かつて竜玄も父・宗弦との修行で同じことをし、同じように罵られたのだろう。 細く細く、けれどたしかに繋がれている親子の絆、情。雨竜が、そうした愛情を捨てずにクインシーとして立派に生きていけるならば、それは父・竜玄が歩みえなかった新たな道となる。そしてまた、雨竜が父を超える瞬間でもある。 |