同じ空の下に

《憧れ》

 ユバールでの最後の夜、消灯後のテントの中でキーファがなにかぼそぼそとアルスに話していた。
 今思うと、最後の夜だということでなにか積もる話でもしていたのだろう。
 あたしはうるさいな、と思っただけで特別耳を傾けはしなかったけれど、少しだけ聞き取れた。
「俺、ずっとお前のことがうらやましかったんだぜ」
 これだけだけど、これだけで理解するには十分だった。
 キーファがアルスのことをそんな風に思っていたなんて意外だったけれど、それよりもあの脳天気な王子が悩みをもっていたことの方が驚きだった。
 城下町でもフィッシュベルでも、あの島のどこででも太陽のような方だと慕われ、かわいがられ、好き勝手やって底抜けに明るい笑顔を見せていたキーファ。
 王子のくせにしょっちゅう城を抜け出して、アルスとなにかこそこそ面白そうなことをやっていて、王様もわりと自由にやらせているらしくて、あたしはあいつが心底うらやましかった。
 女というだけで船に乗せてもらえず、キーファとアルスに交じりたくても何度も追い払われ、退屈で死にそうな部屋の中、クッションに八つ当たりしていた。
 小さな頃は一緒に遊んでいたのに、大きくなるにつれて、女というだけで怪我させちゃいけないと過保護に扱われるようになり、あたしはいつも全身で反発していた。
 あたしよりも王子様だったキーファの方がよっぽど好き勝手にやっていて、何不自由ないように見えた。
 そのキーファが、アルスがうらやましかったと言った。
 王子でもなんでもない気楽な立場がうらやましいというのでもなさそうだった。
 アルスというあのちっぽけな男の子がうらやましい…すぐには信じられなかった。
 一体、何を悩み、何がうらやましいというのだろう。あの王子は。
 あたしの隣でしょんぼりとうなだれているこの情けない馬鹿のどこがうらやましいのかは未だにわからないけれど、たしかなのは、アルスはキーファにとってただの弟もどきではなく、実は憧れの対象だったということだ。
 そして、うらやましかったと言った翌朝にあの決闘もどきがあって、キーファはユバールの守り手となった。
 これが何を意味するかは一目瞭然よ。
 キーファはアルスに追いつこうとした。何がうらやましいのかは知らないけれど、とにかくあれがキーファなりのやり方だったのだ。
 あの時空の歪みにあたし達を追いやった時にキーファが見せた笑みは、今でもはっきりと覚えている。これからも忘れることはないだろう。
 あの笑みの意味があたしにはわかってしまった。悔しいけれどわかる。あたしも同じだから。
 あれは、永遠の憧れに向けた淋しい笑顔よ。
 追い求めて、追い求めて止まない、きらめくもの。手に届くところにありながら、自分のものにならないもの。
 自分の部屋の窓からよく眺めていた出航の光景。あの船はうちのものなのに、あたしが女というだけでパパは乗せてくれなかった。
 何度悔しい思いであの船を見送ったことか。あたしがあの甲板に立っていたら、と何度夢想したことか。
 そんな憧れを思い出させる笑みだった。あの小さな島で見せていた無邪気な笑顔とは異なる、はかなく、けれど毅然とした笑顔がゆらめき、時空の歪みの向こうに消えていった。

 キーファはもういない。けれど、それはあいつがようやく道を見つけたということなのだ。
 そして、その後押しをしたのは他ならないアルスなのだ。
 キーファを焦がれさせ、そして一歩を踏み出させたのが自分だということにまだアルスは気づいてない。
 あたしの横でぼけーっと空を見ているこの馬鹿のどこにそんな価値があるのかどうかはわからないけれど、キーファがアルスを大切に思い、そして特別視していたことだけはたしかなのだ。
 なんて。なんて贅沢なんだろう。
 こんなに思われ、憧れられながら意識すらしていないなんて。
 キーファはライラさんを選んでアルスを捨てたわけじゃない。
 むしろ、アルスがいなかったら、ライラさんに惚れても王様やリーサ姫を捨ててまで彼女と一緒になろうとはしなかっただろう。
 アルスと並ぶ、それだけのためにあいつは王様もリーサ姫もグランエスタードも捨てた。
 捨てたという言い方がまずいなら別れたでもいい。なんにしろ、絆を断ち切ったのはたしかなのだ。
 だけど、アルスを捨てたわけじゃない。
 遠い時代の遠い地でがんばってユバール一族を守りながら、その心は今アルスの隣にいるあたしよりももっと近く、アルスのそばに寄り添っているのだろう。
 こんな強い思いをあたしは見たことがない。
 平和を空気のように当たり前だと思い、その中でただ微笑む人達にはわからない、焦がれるような思い。
 なのに、当のアルスは捨てられたと思ってしょげかえっている。
 悲劇を通り越して喜劇だわね、これって。
 お話にでも出てきそうな、見事なすれ違い。
 でも、教えてやらない。教えないんだから。
 自分で気づきなさいよね、アルス。

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