零れた、掌中の珠
《異変》
「やめなさい、サンドラ」
ふり返ると、そこにはさっき道を尋ねた異形の人間がいた。
「王…」
あの女も、アイツも、みなその人間の方を見つめていた。
その人間はゆっくりとこちらまで歩み寄り、すっと向き直ると
「傷つけても何の解決にもならない」
と諭すようにサンドラに語りかけた。
「…私は許せないのです、この者達が…」
そういい、サンドラは腕の中の真珠を憎々しげに見下ろす。
「お姫様、あなたの役割は何? 言ってごらんなさい」
と問いかける語気が荒くなった。
一瞬うなだれた真珠は、ついと面を上げて
「今は泣けない…けれど、わたしたち涙を取り戻さなくちゃ」
とサンドラをまっすぐに見上げた。
りん、と闘気が燃え立つのが目に見えたような気がした。
「ならば!! あなたが彼の傷を癒せばいい!
泣けるものならば…」
身構える暇もなかった。
ざくっと核をえぐられる感触の後に、ナイフが飛んできたのだとようやく気づいた。
一瞬、気が遠くなりかけたが、オレを支えた腕の力強さに意識が戻る。
「大丈夫か!?」
アイツの声がひどく遠くから聞こえてくるようだった。
けれど、アイツの心配よりも、オレの核の傷よりも、まっさきに気にかけなければならないものがあった。
霞みがちな視界の向こうに、青白いゆらめきがすらりと立っているのを見て、かろうじて命が繋がったかのような、細くたしかな安堵感を覚える。
「さあ、お姫様、あなたの大事な騎士が傷ついてしまったわよ?
癒せるものなら癒してごらんなさい」
サンドラは相変わらず真珠を挑発している。
たとえ核を傷つけないとしても、真珠の心をかき回すことは許さない。
「真珠…そんな奴の言うことは、聞くな…!」
かろうじてしぼり出した言葉に、真珠がすかさず反応する。
「るりくん…!」
すると、サンドラが飛び出そうとした真珠をぐいと引き戻した。
「…あなたも口先だけの人だったわね。
泣けないのならば、その核はいただくわ」
オレを支えていたアイツにも緊張が走るのがわかった。
思わず伸ばしたオレの手は、届かなかった。まっすぐに立つことでさえおぼつかないオレと真珠との距離は、果てしなく遠かった。
守れないという底なしの絶望に意識が揺らぎそうになったその刹那、
「…癒すことができないのならば、せめて戦う力を…」
という思いがけなく凛々しい声音と共に、急に真珠がまばゆい光の中に包み込まれていった。
暗い洞窟の中に急に巻き起こった光の渦に、サンドラも一瞬たじろいだようだった。
何が起こったのかわからず、見守るオレ達の中で、光の渦が次第にほどけていく。
暗闇が再び辺りに舞い降りた時、誰かがそこにすっくと立っていた。
揺れていた三つ編みが、ふさりとその背中に落ちる。
一瞬、真珠かと見まごう容貌、出で立ちだったが、傷ついたオレの核がそれでも、あれは真珠ではないと告げていた。
その胸に煌めくのは、黒い真珠。かつて感じたことのある、あの共鳴。
最悪の瞬間が、来た。
怖れていた時が。
傷ついてなお、きぃんと共鳴するオレの核。
あの人、だ。
体中から力が抜けていく。
深い、深い虚無感がずるずるとオレを引きずり込んでゆく。
真珠…!
「サンドラ、私と剣を交えるつもりか?」
凛とした声が洞窟内に響く。
「まさか! あなたと剣を交えるつもりはなくってよ」
そう言い、サンドラは何かを放り投げた。
宙に飛んだ一片の煌めきが一気に膨れ上がり、蔦のようにうねりながら肥大化する。
意思のない煌めきが、その鎌首をもたげる。
「今日のところはこれで失礼させてもらうわ…ふふ」
声が響いてきた時には、既にサンドラの気配はなかった。
「君、手を貸してもらえないか?」
既に戦闘体勢に入っているあの人が、その怪物から目を離さずに言う。
それに対してアイツはうなずくと、
「瑠璃…ここにいるんだ」
と言い残し、武器をかまえてその怪物に向かっていく。
どうやら、怪物を奥の方へ誘導して潰そうとしているらしかった。
ろくに身動きもできないオレにわかるのは、音や気配で伝わる様子だけだった。
片膝をついたまま、ぼんやりと気配を感じていたオレの頭は、片隅で冷静に状況を把握していながら何も思考していなかった。
消えた。
白い真珠は、消えた。
あの時、オレの腕の中でみるみるうちに白く染め変えられた核は、明るい日ざしの中で輝いていた。
そして今、この洞窟の暗闇の中で黒へと還っていった。
もはや守るべきものがないオレの体は、核の痛みと共に引きつれ、どんどん萎えてゆく。
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