惨禍

《奇襲》

 少女は、森の中へと、ただ闇雲に逃げ込んでいた。まるで、その深い茂みが自分をかくまってくれるとでもいうかのように。
 息が、上がる。犬の血を引く彼女だが、慣れない森の中では思うように進めない。
(父さん…母さん…兄さん…! もう、会えないの…?)
 そんな恐ろしい考えを押し込めつつ、ひたすら、駆け続ける。
「……!?」
 ふと、少女は何かがいることに気づいた。友好的とはいえない、荒々しい気配が、彼女に向けられている。
(あ……)
 恐怖に、足取りがゆるむ。その気配に押されるようにして、思わず、後じさりする。
 容赦なく迫ってくるその気配に、足元からどうしようもなく力が抜けてゆく。
(…兄さんっ!)
 彼女が目を閉じ、身体を縮こませた刹那。


 質実剛健を絵に描いたような接見の間に、いきなり何者かが転がり込んできた。
「緊急事態にて、無礼のほど、お許しを…王、侵略ですっ!!」
「なんだと!?」
「あの紋章は帝国のものです…!」
「な、なぜだ…? 帝国とは今まで数百年、つかず離れずの関係を保ってきたというのに…」
「現皇帝イルゾワール・エナンシャルクは、最近様子が尋常ではなかったとは聞いております…側近のテセニーゼを娶ってからは、何やら、常軌を逸した言動が目立っていたという噂です。
 そのテセニーゼに、なにやら下らぬ入れ知恵でもされたのでしょう。
 でなければ、なんの軋轢も悶着も起こっておらぬ我が国へいきなり攻め入るなど、考えられぬこと。
 とにかく今は、防ぐことが第一です、王よ、指揮を…!」
「…わかった。では、状況の把握と報告、そして、弱き者達の脱出を最優先に行え! 戦火の及ばぬところに緊急に避難させるのだ!
 侵略の目的がはっきりせぬ以上、無益な戦いよりも皆の無事が優先。救出と退却を優先に行なえと伝えよ!」
「はっ、では、伝令を飛ばします! それと、王よ、貴方の命が狙いとも限りませぬ、どうかここから一時撤退を!」
「うむ…。(しかし、なにゆえ、我がルーヴランドに攻め込んだのだ…?)」


 しかし、ルーヴランドの僻地にあったのどかな村、セタは既に略奪と戦火の渦にさらされていた。
 無防備な僻村からまず血祭りに上げることで敵国の恐怖を煽り、戦意を喪失させるのが帝国側の狙いであった。恐怖政治を行なう国のやり口である。
 少女とその家族も、その前触れのない侵略にさらされた不運な村々の一つ、セタの住民だった。
 少女はその時、兄と二人で、畑に出ている両親の元に向かう途中だった。
 少女はようやく恥じらいを覚える年頃になっており、兄は、その体つきは既に、少年というよりは青年と呼ぶにふさわしいものになっていた。
 その時、どんな会話がかわされていたのであろうか、笑いさざめく二人の会話は、突然の剣戟の響きによって破られた。
「…! 血の、匂いがする…!」
 既に成人に近い嗅覚を持つ兄は、その匂いにただならぬものを感じた。
「ミア、お前は家に戻れ! …いや、村から出た方がいいかもしれない。ただの喧嘩じゃなさそうだ…」
「兄さん!? たしかに様子は変だけど、でも、父さんと母さんが!」
「俺が見に行く。お前は、戻れ。お前の足じゃ、何かあった後では逃げ切れない」
「でも!」
「駄目だ! …ああ!」
 兄と妹はほぼ同時に、村はずれから上がる炎に気づいた。
「火事!? いったい何が!?」
「…最近、いやな噂は聞いていたが、まさか…。とにかく、お前は早く逃げろ!
 俺や父さん、母さんは、いざとなれば、二足歩行しかできない者など簡単に振り切れる。
 でも、お前はまだ、足も鍛えられてないし、無理だ! 行け、早く!」
 兄の厳しい言葉と表情に押し切られ、ついに少女はうなづいた。
「わかったわ…でも、どこへ行けばいいの…?」
「とりあえず、あれとは逆の方に行くべきだな…隣村との間の森に、上手く身を隠せ、そして逃げろ! とにかく、どこかの村や街に行けば保護してもらえるはずだ! さぁ、行け!」
 少女は頭の中がめちゃくちゃでよくまとまらず、聞きたいことも山程あったが、兄は既に畑のある方向へと駆け出していた。
 それを見て、少女も意を決し、身を翻して駆け出す。
 森へと向かって。

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